学級づくり

数学者の時間 特殊化(ためす)から問題解決を

ちょうど円の面積を学習している。そこでブッククラブ用に読んでいる『教科書では学べない数学的思考』からの問題を扱った。

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この良問のおもしろいところは、問題が不親切なところ。一度読んだだけではとてもわかりにくい。だからこそ「特殊化(ためす)」をやってみて、問題が解けそうだと身近に感じられるようにする経験ができるよいリッチな問題だ。

今日のミニ・レッスンでは、図や表、数値や記号、ものをつかって特殊化をすることを確認した。

ときはじめている子どもたちの様子をみていると、同じようなつまずきをみせた。

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ひとつの角をもとに、6mの円をえがいてしまう。つまり、小屋を壁のある小屋と認識せずに、柱だけの小屋として理解している様子だ。(昭和世代には当たり前の犬を小屋の外につなぐイメージは令和の子どもたちにはなく、ヤギも小屋の中で飼うイメージだとか)。

そもそも小屋って中に草ないし! だからあとで小屋分の面積をひくらしい。

しかし、小さな端数の面積がでてきてしまい、どうしていいか途方に暮れる。これを解くにはピタゴラスの定理が必要となるのでクラスの秀才でも「チョットむり」だそうだ。

そこで、立ち返る。この特殊化ではだめだったことが。そこにカンファランス。僕はなんと声をかけていいのか思案していた。

とてもいいスタック(まちがえ)をしている。自分なりに挑戦してみて、どうもうまくいかないことがわかる。このスタックをもっとわかりやすいスタックとしてどうわたしていけるのか。そのための支援ってなんだろう。できないことを楽しむってどういうことだろう。

他の子の特殊化は実際に「もの」をつかってやっていた。スズランテープを使って実際にやっていた!そこで、ロープは小屋を越えて伸びることはないことに気づけたようだ。特殊化の勝利。これはこれでいいと思う。

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こういう力技は好物です。どんどん特殊化していってほしいです。特殊化のよさを味わえた良問でした。

次回は、この問題の特徴を使って問題づくりへと進む予定。

帽子をかぶらないという思春期

今朝、朝スポをやっているときに、ふと気がついたことがある。

本校では、朝の時間はいわゆる全校朝会とよばれるものがない。クラスで話し合ったり、自治活動で委員会の子どもたちが御用聞きにきたり、漢字の小テストしたり、算数テキストを進めたり、のんびりスタートしている。これはとてもいい。朝から全校一斉にあつまるのって時間的にも1日のサイクルでもしんどいものだ。

ちなみに、うちのクラスは毎週木曜日が朝スポといって、朝、体育館でクラス遊びをしている。これは子どもたちの楽しみの一つだ。

リレーをやったり、鬼ごっこやったり、バスケやったり、オリジナル遊びだったり。今朝は恒例のドッジボールだった。子どもたちをみていると、ふと気付いたことがある。

それは、体育用の紅白帽子をかぶっていない子が増えてきたことだ。係の子達が「赤と白にわかれてやってねー」と言っているが、かぶらない。ドッジボールをするのだから、ゲームの運営上不都合が生じる。

かぶらないメンバーの顔をよくみていると、最近、急におしゃれを意識するようになってきた子だちだ。ヒマさえあれば、鏡の前で前髪をミリ単位でマッシュルームに整えている子。姫毛に命をかけて、お手入れしている子。みんな思春期まっただ中だ。

帽子をかぶると、髪型がくずれてしまう。これはドッジボールの命よりも命取りだ。実におもしろい。

しかし、手には帽子はもっている。このあたりがかわいい。一応、ルール上チームカラーには属しているようだ。

これまでの僕の学校経験では、全校朝会のときには帽子をかぶっていなければこれこそ命取りだった。しっかり教師の指導力が行き届いているか、帽子着用は教員の指導力のバロメーターと化していた。名札もそう(ちなみに本校に名札の着用もないしそもそも名札をもっていない)。僕はまぁ、お付き合い程度にはやっていたが、内心、どうでもいいと思っていた。

一方で帽子を目深にしっかりかぶり、ドッジボールに汗をながしている子たちをみると、それはそれでいい。そして少しずつ、周りに巻き込まれながら、自分自身をみつめていく思春期に突入していくんだと思うと、なんだがほっこりする。

これからもかっこよさやかわいさをそれぞれ追求し続けてほしい。まぁ、登下校の制帽をかぶらないのは気になるところ。声はかけるけどさ。

忙しいとオモシロいことがはじまらない

さて、今週末にLAFT(174回目)で算数の実践報告をする予定になっているんだけど、まだ何も手がつけられていない。

修学旅行がやっと終わってその報告会づくりの計画を始めたり、会計報告やったり、学校便り報告書いたり、職員会議用の修学旅行報告書書いたり、報告書だらけかい! と、今はあれやこれやとゆとりがない。

人はひまな時間がないとクリエイティブになれない。そんなの当たり前田のクラッカー。ゆとりがなければ、おもしろいことは思いつけない。だから、ひまってとても大切にしたい。

よく「頼み仕事の忙しい人に任せるといい」と言われるけど、そんなブラック企業なことはやめてほしい。忙しい人は忙しいが為にせっせと働いているのに、そこに塩をぬるように、さらに忙しくしないでほしい。

僕は忙しいときほど仕事をしたくなくなる。ふとんをかぶってねてしまいたくなる。できるだけそっとしておいてほしい。どうしてもやらねばならないときに、ふだんの120%の力を発揮するから許してほしい。

ということで、いろいろなことが手つかずで、追われる身となっているハリソンフォードの気分を味わっている。そのやり場のない気持ちをWowWowと叫びたくなる。

でも、せっかくだから実践報告では普段の算数とは異なる考えることが楽しい時間を過ごせていること、それが個人の活動を越えて、コミュニティというあつまりで生まれていること、その価値をあらためて提起し直したい。忙しくてできないかもしれないけど。その気持ちはあるとだけ表明しておきたい。

ということで、はやめに寝ることにする。おやすみなさい。

心のビタミン剤、それはねぎらいの言葉

今朝、教室に顔を出すと、机の上に連絡帳がおいてあった。

朝から、教員の机に連絡帳があるのはゆゆしきこと。悪運立ちこめるそんな1日の始まりの合図だ。これは警戒しないといけない。

開いてみると、なんてことはなかった。修学旅行中に声をかけていた保護者の方から感謝の言葉があった。

ふむ。

こちらは当たり前だと思ってやっていたことだけど、声をかけた子は家に帰ってからそれが嬉しかった、安心できたことだったらしい。

たまには人の役に立つこともしている自分をほめたい。

連絡帳に感謝の言葉、たったそれだけのこと。それだけで、1日が気持ち良くスタートする。先生ってそんな仕事。

それだけに、ほんの一言だけでもねぎらいの言葉をかけることは大事なことだと思う。

僕は小まめに伝える方ではないので、目力で伝えたいと思っている。しかしそもそも視力も弱いのであまり効果がない。やはり言葉で伝える事は大切だ。だから、せっせと子どもたちのジャーナルに返信を書いている。自学ノートもみられるときは返事を書くようにしている。

僕ら教員はだれかに認められるためにやっていることはそんな多くないと思う。多くの仕事は自分の自己満足が多い。

もちろんお付き合いの仕事もあることはあるが、結局はそのさじ加減は自分が決めている。それだけに、誰かから感謝されたりすることは最初から期待していない。

けれどもやはり、がんばったらがんばったなりにお褒めの言葉をもらいたいものだ。教員とはそういうものだ。覚えておいてほしい。僕らはもっとエネルギーチャージされてしかるべきなのかもしれない。

ここまで書くと、やることやってから言えといわれそうだが、あえて言ってしまおう。

ふりかえってみると、いい管理職や信頼できる学年の先生たちは、必ずといっていいほど、ねぎらいの言葉を自然とかけてくれていた人達ばかりだった。そしてこれまで出会ってきた保護者の中にもそういうモデルとなる人がたくさんいてくれた。

今朝、職場に顔を出すと、多くの先生たちから「修学旅行おつかれさまー」と声をかけてもらった。いい職場だと思う。

やってもらって、やってあげてあたりまえと思わないこと。僕も少し意識して感謝の言葉を伝えていこうと思えた朝の一幕だった。

この修学旅行で一番うまかった肉玉そば。

健康診断のショウモナイ話

今日は修学旅行の代休。でも職員向けの健康診断が学校であるので行ってきた。

毎年、くりかえされるんだけどいつもそれって「ダメじゃん」っておもっているショウモナイ話。それが聴力検査。

その聴力検査用の部屋に入ると、音が入ってこないようにするためか、ていねいにおばちゃん看護士さんがドアをしめてくれた。僕は気を利かせてヘッドフォンをかぶろうとすると、おばちゃん看護士さんがとっさにとめて「私がつけますよ」とおもむろにかぶせてくる。

ははん。聴力検査の成績を上げようとわざと耳からヘッドフォンをずらそうとする輩がいるんだな。僕はそんなズルはしないでおこう。

自分で微調整をするけれど、いつもつかっているボウズのヘッドフォンとは着け心地がまったくことなり、どうも耳にフィットしないで着け心地が悪い。そもそもデザインもウルトラ隊基地でつけているような昭和感満載のヘッドフォン。

いよいよだ。おばちゃん看護士さんがマシンを操作する。僕はそのマシンを背にして座っている。

「音が聞こえたら手を挙げてくださいね」といわれ、おばちゃんはマシンのボタンをカチッとおしてしまう。おしてしまうので、「あぁ、いまからあのピーという音が僕にきかせてくれるのだ」という心がまえが事前にできてしまう。そしてそのとおりになり、言われるがままに僕は手を挙げる。

こういう時に優秀さを示そうと、カチっと同時にサッと手を挙げてしまう自分がいた。

カチ、サッ!ピー。カチ、サッ!ピー。

はい。反対

カチ、サッ!ピー。カチ、サッ!ピー。

リズム良く手を挙げて、僕とおばちゃんとのセッションが終わった。

あの聴覚検査、意味ないよね。ボタンの音とそのリズムでわかるじゃん。そしておばちゃんも分かっていてもうそのリズムでよしとしているし。

このショウモナイ話。毎年かんじていたことだけに、今日、ここにこのタイミングで供養できてよかった。

ほんとはまだまだあるのよ。レントゲン両肩おしつけ地獄とか、聴診器診察時目線気まずい問題とか。


大久野島から本島へ変えるときの船内。これってとれちゃダメなやつじゃん。

修学旅行なのに!校長先生のビンゴ大会と大漁釣果

広島へ3泊4日の修学旅行にいってきた。二日間は広島市の平和記念講演でみっちりと平和教育について考える時間を。のこりの二日間は大久野島へわたり、被害だけではない日本軍の加害についても、その場に行って学んできた。

あまりにも戦争のことが一気にふりかかってくる日程だったため、気持ちがなかなか追いつかない。子どもたちも同じだようだった。

だからおもいっきり遊んだり、自由な時間がじつはとても大事な時間だったと振り返ってみておもう。

「食事のあとに10分だけもらえないかな?」と校長がお願いしてきた。「ビンゴ大会やって、みんなで楽しもうよ」とお土産コーナーで子どもたちが喜びそうなぬいぐるみやキーホルダー、ご当地スナックや文房具を楽しそうに選んでいた。もちろん校長の自腹だ。

いろんな修学旅行はあるにせよ、校長自らが率先して楽しんでいる学校ははじめて。最初は「そんな時間ありなのー?」とびっくり。でも、あまりにも重い歴史と事実に触れ続けて、みんな心が疲れていた。子どもたちがふっと楽しんだり、盛り上がったりする時間がやっぱり大切なんだと、やってみてわかった。

もちろん、食後の抽選会はおおもりあがりだった。

僕はといえば子どもたちとは昼間一緒に釣りにいった。「これまでの経験で1匹つれればいいほうだよ」と聞かされていたから「ならば、夕食のおかずに一品ふやしてやろう」と釣りに興味のある子どもたちと気合いをいれていった。

今年の子どもたちは魚愛が強すぎる子たちばかり。防波堤から竹竿をたらすと、すぐに入れ食いだった。海の神様が微笑んでくれた。ベラ、カワハギが大量に釣れた。「こんな経験はじめて!」とみんな嬉しそう。小さめのオコゼやフグもつれたが逃がしてあげた。バケツいっぱいの海の幸にめぐまれ、調理場にたのんで夕食に唐揚げでだしてもらうこととなった。

白身魚のベラやカワハギは実は高級魚。身がやわらかくて本当に美味しかった。子どもたちは自分たちがつった魚がほんとに夕飯にでてくるとは信じていなかったようで、目の前に大量の唐揚げがでてきたときには、大興奮だった。

学ぶことって、バランス。息抜きがないとよりよく学びにむかえないなぁ。

書き続けてみてわかった4つのこと

毎日書くときめてから、すでに50日がたった。よくまぁ細々とつづけてこられたものだと我ながら関心関心。

「さすがにもう今日は書くことないなあ」と思える日もあったが、いざPCの前に座って書き始めてみると意外や意外。不思議と何か書きたいことが到来してくる。そう到来する。

書く前まではまったく予想もしていなかったことや、考えてもいなかったことが跳んでくる。自分の中にこんな自分がいたんだと驚きがたびたびあった。

書き続けてみて、わかったこと。その1

書く前には書いた後の自分のことは想像つかない。これが身をもって分かったこと。書くとは予想もつかない変態だと思う。僕はそういう変態をくりかえしてきた。と書くとなんかあやしいけどな笑。

書き続けてみて、わかったこと。その2

1日のうちにあったもやもやが言葉になると、なんだか自分をいやしてくれる。心おだやかになれる。ふりかえってみて、こういう時間がまた大事だったりもする。

書き続けてみて、わかったこと。その3

何か書き上げられるとスッキリするし、とてもその1日に大事な意味を感じられるようになった。決してたいしたことを書いたり、あったほとでもないにもかかわらず。そう思えてしまう不思議な力がある。日々を消費しないでいられた気がする。気がするだけだけどな。

書き続けてみて、わかったこと。その4

書き続けるコツがわかってきた。日々、クリティカルヒットなことは書けないし、そういうことは期待していなかった。わがままに書きたいことを、思ったことをかくだけ。自分自身にも期待していない=ハードルを下げることが、継続のコツだった。

結局、日々、たんたんと記録していくこと。これだけで、自分との出会いでもあり、それがまた自分を励ましてくれるものだったりもした。

明日から、修学旅行の4日間。たぶん大忙し。しばらく書くことはお休み。また復活できるか不安もあるけどそのときはまたそのとき。

そうそう。習慣といえば、朝トレも結局は毎朝続き、3週間が経った。明日の修学旅行バッグには、トレーニンググッズをしのばせておく変態がここにいる笑。しっかり学んで楽しもっと。


今日は学園で一番大きいヒマヤラ杉の直径を条件つけてしらべてみた。

この年末。KAI(甲斐埼博史さん)から学ぶ機会を逃すと、あなたはきっと後悔する

今回、どうしてもKAIさんから学びたい。念願かなった研修会。

LAFT2023冬合宿 KAIさん教育実践から学ぶ

現在、軽井沢風越学園の副校長をしている甲斐埼博史さん(以下、いつもどおりKAI)。

どうして、KAIから学ぼうと思ったのか。

先日、ある研修に顔をだしたところ、偶然にもそこにKAIもいた。グループ対話もまた偶然いっしょのグループだった。そこで今、KAIがやっている「体育」といういう名のアドベンチャー。もう突き抜けて面白かった。

KAIの「今」の実践を知るには、軽井沢風越学園のHPからこれまでの投稿が読めてお得。これを読むだけでも、KAからが体験学習が人をどう育てるのか、そのリアルが伝わってくる。

そして、その場にいた若い先生がKAIに質問した。「そのカリキュラムで学校で教えるべき事をおさえられるのですか?」

それのKAIからの返しがまた印象的で。

「じゃぁ、あなたは先生が教えれば、子どもたちだれもが同じことを学べると思いますか?」(正確には覚えていないが、たぶんこんなかんじのことだった)

教師がたった一つのことを教えたとしても、学習者によって何を学ぶかは人それぞれちがう、ということだ。カリキュラムありきではない。学習者ありきだ。もう次元がちがうのよ。

若い先生は、職場で言われたことや教えるべき事をせっせとカバーするための教師のためのカリキュラム。一方、KAIは学習者の立場に立ってその学びに一体何がおこっているのか、のぞいてみることが大事だとしずしずと語ってくれた。

ここのブレなさ加減。そうだそうだ。KAIってそういう先生だった。自分の中に大切だとおもうことから、一切ぶれない。妥協しない。やるときめたらやる。

𠮷田新一郎さんが以前口にしていたことに「KAIさんはやると決めたら、たった一学期間でライティング・ワークショップの実践から原稿までかきあげてしまった!」マッチョかっこいい。みならいたい。

サークル対話でのやりとりを聞いていて、「あぁ、KAIからもっと学ばせてもらいたいな」と素直に思った。

そして、今年はKAIの教員ラストイヤーでもある。その集大成かつ野望かつこっそりあるだろう失望、語ってもらいたい。

これは僕の中においても歴史にのこる研修となるはず。はたまた、学習仲間の3号がきりもみする箱根温泉「みたけ」でおこなわれるのも嬉しい巡り合わせだ。

「子どもは(人は)誰でも有能だ」いつもお酒を酌み交わし語られ続けたKAI語録。世界平和を願っている静かなる熱い先生。それがKAI。

KAIとの研修会は以下のURLから申し込めます。のこり若干名となりました。お急ぎください!そして一緒に学びあいましょう。

https://www.kokuchpro.com/event/4c67517c528e192a5887ee62ee22f6e4/

もう何十刷りなんでしょう、この本は教室に毎年おいてあります。子どもたちも好きでパラパラとよんでいる本。一緒に原稿カンヅメして書いたのが懐かしい。

https://amzn.to/48WRrgW

「怒り」とどうむきあうのか

今年は様々な場面で他者からの怒りに対峙することがあった。また、その場面をみることもあった。その一つひとつに相手の気持ちはわかることがある。

僕はといえば、あまり怒りをあらわにする方でもなく、いつもへいへいぼんぼんと生きている。それはラッキーなことでしかないのかもしれない。この仕事がら「おだやかでごきげんでいる」ことは一種のたしなみのようなものでありたい。

怒りってなんだろう。

気になってまずはセネカを読み始めたが(論点がわかりづらくながい!)、戦争や日常の出来事、動物の怒りなどさまざまな観点から検証され、どうも、怒りをもってはよろしくないことがストア派哲学からはみてとれた。それは理性をうしなうからだ。

セネカ (著), 兼利 琢也 (翻訳) 『怒りについて 他二篇 』(岩波文庫) 2008/12/16

先日、10月2日のブログで福田村事件をみてきた感想に僕は以下のようにつづった。

“差別意識は気付かないところに誰にでもあるものだ。ただ「差別はいけないと教わっているから差別をしない」ままでは、いざ「差別をするのがあたりまえや得するとなった集団や社会」では、普通に差別が起こるのではないだろうか。学校のいじめも同じ構造だ。

差別撤廃、差別を禁じているだけではダメなのだ。無知から差別は生まれる。自分の内面にある偏見を見つめ、差別はもっと根っこの部分で理屈を越えるもの、怒りや義憤の感情を伴わなければならない。”

本当に自分にとって大事なことには理性を失ってでも、うったえたいことに感情的になっていい。怒りをもっていいのだと。いや、怒りをともなわないといけない。

僕は生きるためには、ものわかりよく過度に怒りをもたないようにするのが成熟されたオトナだと思って生きてきた。でも、ちょっとちがうのかもしれない。もっと感情をだしてもいいのかも。

明日からいきなり「コラ!」と怒鳴ったら、びっくりされるだろう。怒りをもつことは大事なことだが、その出し方とその後のことのを考えるて感情を安心して出せるといい。

以前、日精研のアサーショントレーニングで「怒りの感情はいきなり激高して怒りとなることはない。怒りには段階があり、最初は小さな困りごとがあるだけだ」と教わったことがあった。

小さな困りごとを日々口にしていけるといい。信頼関係をきづきつつ困りごとのうちに怒りのマネージメントをする。ぐちっぽくならないように。そして、同じように相手にも怒る権利、困りごとを伝える権利も大事にしないといけない。

でも、怒りを出したり、向けられることはとても疲れること。お互いケアの気持ちをそれ以上に大事にしていきたい。

開幕3連敗は怒りというか悲しみでしかない。

LAFT2023冬合宿 KAIさん教育実践から学ぶ

今年の年末は、KAIさんとじっくり対話です。

「LAFT2023冬合宿with忘年会 KAIさん教育実践から学ぶ」のお知らせです。

年末の12月27日(水) 10:00〜2023年12月28日(木) 15:00に、LAFT2023合宿を企画しました。箱根温泉「みたけ」で風越学園のKAIさん(甲斐崎博史)の教育実践からたっぷり二日間学びます! 

僕の尊敬する先生の一人であるKAIさんとのおつきあいはすでに10年以上。一貫してぶれないのがKAIさんのすごいところ。常に体験学習がそのねっこにあります。

そして行動力のあるところ。たきビールをしていたら急に「おれ仙台にいこうと考えてる」と震災後の気仙沼支援にしばらく行ってしまった。そして「イエナ学んでくる」といつのまにかオランダ留学へ。どんどんアクションしてしまう。

そんなKAIさんから、教師としての矜持をぜひじっくりとあじわってもらいたく企画しました。

理想の教育実践をききながら、自分自身の理想を捉えなおす。それを参加者の皆さんとじっくり対話しながら考え合います。よかったら一緒に学び合いませんか。

そして今回の目玉はなによりも我らが勉強仲間の3号が若旦那を務める箱根温泉「みたけ」が研修会場です。温泉あり、大宴会あり、夜は忘年会で盛り上がりましょう。宴会隊長募集中!

申し込みはこちらから↓

https://kokc.jp/e/4c67517c528e192a5887ee62ee22f6e4/