芝生の上から狂言と能

仕事終わりに、狂言と能の能楽「森の薪能」を堪能してきた。

会場は、秋を感じさせる新宿御苑の夜。心地よい風と涼しさと鈴虫の音。能楽には珍しい屋外講演だった。いよいよかがり火がたかれ、能の舞台が整った。

僕は日本古来700年続く身体表現に興味がある。野村萬斎の登場はやはり、すり足からだった。すり足とは、地面から出てくる悪魔を払い、清める所作。

狂言は、かけ合いの対話が説明調でわかりやすい。庶民の僕でも十分楽しめるものだ。演目は「茸(くさびら)」。山伏が、神通力で祈れば祈るほど、とってもとってもはえてくる茸に翻弄される滑稽話。昔の人はこうやって、立派で地位のある人達をおかしみにかえてしまう。

野村萬斎口調で「おびただしいくさびらだ!」「ゆるしてくれ、ゆるしてくれ」とくるくるしながら逃げていく様は滑稽そのもの。あの口調はついついマネっこしたくなる。

だいたい狂言の次には能がくる。「いよーぉー」「ほっ!はっ!」ぴーひゃららら♪のあれである。演目は「一角仙人」だ。シンプルな空間に上半身がまったくぶれない腰の据わった舞。降り立つ龍神。

しかしだ。まったく意味がわからない。目をこらし、耳を澄ませてみようとも、解説なしには全く理解できない。能は今回がはじめてじゃないけれど、毎回、昔の人に思いをはせておわってしまう。昔の人は一体これをどうやって楽しんでいたのだろうか。庶民の僕にはわかrなあい。わからないから、また観に行こうと思う。

文化的な生活にはまだ及ばないが、たまにはこういう秋夜の過ごし方もいい。

でもアマプラやNetflixもすきよ。

評価されない時間があったっていいんじゃない?

僕は学校の中に、子どもたちがなんら評価されない時間があったっていいと考えているし、そういう時間を大切にしたいと思っている。

どの教科においても、常に評価にさらされたり、できる/できないを要求される場ってどうなんだろう。きっと息を抜けないんじゃないかな。とくに勉強が苦手な子や嫌いな子にとっては。

そのうち文科省は、休み時間も評価の対象にしてしまうのではないだろうか。「ナオト君は勝手な一人遊びが多いので、集団あそびができません。評価1。留年決定」みたいな。おおこわ。

授業の中で、できる/できないを求められない授業ってなんだろうと思うと、今できている時間はやっぱり数学者の時間だと思う。

数学者の時間で、良問(答えが一つではなかったり、考え方が多様であったり、自分の力量よりもちょっと難しい問題など)を解いている時間だけは、評価から解放されている時間になっていると思う。

もちろん、数学者の時間であってもパフォーマンス課題(各自がつくった問題や算数ものづくりなど)があったりするが、自分の頭で考えてみること、それを楽しもうとする時間こそ、大切にできるといいなと思っているから、わかった/わからない、できた/できないを要求することはないなぁと、ふりかえってみて思う。

問題をとけるともちろんうれしいが、とけなくたって、考えることをぜんぜん楽しめている様子だ。この問題はできないといけない、わからないといけない、といったプレッシャーにさらされることがないため、子どもたちは算数の評価に踊らされていないから、楽しめているのかもしれない。

もっといえば、問題にとけないでスタックしている様子やできない姿をみて「ふふふ。しめしめ」と伝えているぐらいの僕は悪い先生だ。でも子どもたちもそれを喜んでいるようだし、決して教わりたいと思っていないようで自分で考えたいとのこと。

ただ、そこには問題をネタのように解いているわけではなく、問題解決のサイクル(数学的思考)がはたらいていることが大切だ。このあたりは、今じっくりと原稿にしているので、機会があったらそれを読んでもらえるとうれしい。

この問題解決のサイクルを子どもたちはどうつかっているかは、気になるところで、子どもたちにはもっと思考のあしあとを残してほしいと思っている。このあたりはまだまだ課題が多いが、続けていけば解決される問題だと思う。

そして何よりも、数学者の時間は「ワークショップ授業」ということ。ここあたりを理解できないと、数学者の時間もただのコンテンツやネタの提供となってしまい、ひとつの教科の枠をこえた学びとなっていかない。

数学することを通して、ワークショップ授業で、どうやって人と学び合い、弱さも含みこんで一緒にいきていく集団、コミュニティをつくっていくのか。このあたりは継続してLAFTで追求し、言葉にしていきたい。

学校はもっと居心地のいい場所にしていけるようになるといいなぁ。

算数のできる/できない問題には、答えはあるのか

学習サークルLAFTの算数編がスタートした。算数ギライがあつまるはずなんだけど、算数好きもあつまってなかなかおもしろい場になった。

こういう公立と私立の枠をこえて、そして小中高の校種もこえて、一緒に学び合えるのはうれしいもの。お互いの刺激になります。

今日は、算数ができないことへの生きづらさが語られた。

「できないと高校も進学できない。算数・数学は自分の進路に大きくかかわり将来を規定するものでもある。楽しいとかいっているとムカムカしてくる!」と。怒りにもににた本音の声だ。

これをどうメンバーでひきとってかかわっていくのか。これからためされる。

たしかに音楽とか歌はへたでも大きな声で歌えば認めてもらえるけれども、算数は大きな数字で書いたところで○はもらえない。どうして算数・数学はこうもできる/できないことをつきつけられるのだろうか。

この能力を身につけるているかどうかを測る教科には算数・数学はわかりやすい。けれども、この能力ってそもそも、個人のできる/できないに本当に帰属させてしまっていいのだろうか。

僕は、能力を発揮する時なんて、友人がいてくれたり、仲間がいてくれたり、そこでの関係性や文脈があってパフォーマンスがはじめてあがる。嫌なことを言ってくる人や仲間を尊重できない人がいれば、僕の華麗なるその能力はまったく発揮することなんてできない。これは誰もがありうることだろう。

このできる/できない問題を、個人にかえすのではないものの見方ができないものだろうか。もし個別の責任を越えることができるなら、現在の能力を高めることにのみ力点が置かれる教育は見直されるはずだ。

僕はこの算数・数学はできる/できない教科の価値を相対的にバランスするためにも、「数学者の時間」で本来の数学する考える楽しさを味わえることに光明を見いだしたい。

こういう話をずっと聞いてくれる仲間、考えを深める問いをなげかけてくれる仲間がいることに僕は自分の力を伸ばすことができている。仲間に恵まれていて幸せだし、これまでもこれからもいっしょに付き合っていきたい。

さて、ブッククラブチームも決まり、僕自身の実践発表も決まった。子どもが楽しく学ぶためのモデルとなれるように、大人も本気で楽しく学ぼうとおもう。

ウクライナから『戦争が町にやってくる』絵本作家をおまねきして

Добрий день.(どーぶりでーに)、こんにちは。

今日はウクライナから『戦争が町にやってくる』の絵本作家であるロマナ・ロマニーシンさんとアンドリー・レシヴさんをおまねきしてウクライナの今を教えてもらった。

アンドリーさんは徴兵の義務もあるという。その中で文化啓発活動の一環としてなんとポーランド経由で長い時間をかけて訪日してくれた。それを支援したのが出版社であるブロンズ新社(ヨシタケシンスケさんの本やたにかわしゅんたろうさんなどだれもが一度は手に取っているはず)だ。

ウクライナのキレイな町並み、実際の戦争を題材にした絵本の作り方、そして、「日常の大切さが、戦争でわかった」と通訳のエレーナさんを介して話してくれた。

今の戦争は、ミサイルが飛んでくるとそれぞれの携帯アプリでその位置を確認してから仕事を片付けてシェルターへ避難する。シェルター内の子どもたちは、歌をうたったり勉強をしたりもする。

こういう戦争下だからこそ、笑顔でいたいと二人のアトリエでうまそうなアイスをほおばる写真もみせてくれた。その心もちに子どもたちと心を揺さぶられた。

建物が破壊される。すぐにまたそれを復元し建て直す。それはすでに元の建物ではないことも伝わってきた。「壊れやすいものほど意思は固い」と話してくれた。

ウクライナの実情の一つを知った。でもこれはウクライナだけのことではなく、ロシアで生活している人も同じく、戦争下で苦しんでいるだろう。

これは僕にとっては、どちらの国を支援するといった問題ではない。国を越えてつながりのあるロマナさんとアンドリーさん、戦争下にいる人を支援するつもりだ。

これまで平和教育について考えてきたからこそ、子どもたちからたくさんの質問がでてきた。感想も豊かだった。お二人やブロンズ社の方たちからも、子どもたちの自由な様子、よい学びの雰囲気のこと、ほめられたりもした。

今回、声をかけてくださったのはブロンズ新社。本校のHPのこれまでの平和学習の活動をみてくれたのがきっかけ。だから、この取り組みはこれまでの桐朋の歴代の子どもたち、先生たちがつないでくれたもの。

ブロンズ新社の方々はこの日まで、本当にていねいな打ち合わせをしてくれた。別れ際に目頭が熱くなってしまった。とても気持ちのいい人たちだった。

翻訳界であの有名な金原瑞人さんに直接お会いできたのも貴重な体験。図書室には金原さん翻訳本をずらりと並べていたのもステキ。

トラブルあっていいじゃん! ピンチはチャンス

子どもたちの生活の中では、トラブルはつきもの。学校がはじまり、1ヶ月もしてくると、授業以外においていろんなトラブルがはじまってくる。人と人がいっしょにいるからこそ、対立や葛藤がうまれる。

僕はいつもそれでいいとおもっている。これは次の関係へと変わっていくきっかけにしていきたい。

トラブルは正直いえば、ないままでいてほしいし、平和でいたい。でもトラブル0が平和だとは最近そういえなくなってきている。日々のトラブルをちゃんと自分たちの成長の糧とできるように、話し合って解決していけることこそが平和なのかもしれない。

もちろん、怪我をするような安全がおびやかされるトラブルは絶対になくさないといけない。

子ども同士の健全なトラブルから学ぶことは本当にたくさんのことがあるはず。だいじなことはこのトラブルから逃げないこと。

僕の尊敬するボスが生前「ピンチはチャンスだよ」と何度も言ってくれていた。僕が当時、担当してた生徒に殴られたその日でさえも。ピンチ過ぎるのにぃ。

でも、そうだとおもう。トラブルをていねいにほぐして聞いて、ときにホワイトボードにメモしてあげながら、ちゃんと話し合っていくと、少しずつ変わっていけることも知っている。

その渦中にいるときは苦しいし、逃げたくなる。これはみんなそう。自分を守ろうとしてしまうこともある。相手を責めたくなる気持ちもうまれてしまう。

そういうときは、そういう気持ちになりかけている自分を受け止めて、落ち着いて話をきくことからはじめる。それしかないと思う。相手の言い分をちゃんときく。何をおもっているのか。どうしたいのか。

これってしんどいといわれるとそうだけど、そのうち、ケロッとして「あのときあんなことあったね。あはは」と笑えるときがくると信じているし、たいていそうなってきたし、この先もそうなると思っている。

一人の子とじっくり相談した。この時間がとても大事だったとふりかえってみてそうおもう。ちゃんと受け止め、ここから何を成長していけるのか、ただただ聞いて、いっしょに考える。

子どもは純粋培養で育ってきた子よりも、たくましくいろんなトラブルをのりこえてきたほうが強い。だから僕だって強くもなれる。

ということで最近、ピンチだらけなので、チャンスだらけということ。

しぜん広場でこっそりまつっているネコ神様

先生やってて楽しいこと

教員志望者がへってしまっている。

僕にできることはなんだろう。改善の「妙案」は僕にはいくつもある。その中でも、一番を新大臣に教えてあげたい。

それは、先生を楽しんでやっていることだと思う。楽しいところにはきっと人が集まってくる。

先生やってて楽しかったと思うこと、子どもたちといっしょにいて楽しいことを思いつくままに挙げてみようと思う。

「おはよう」というと、「おはよ」と返してくれる。

とんがり坊主が落ち着いて、ちゃんと席に座れるようになること。

ノートに本音を書いて教えてくれること。

授業でわからないと率直にききにきてくれること。

僕だけをたよることをせず、友だちを頼ろうとすること。

教えたことをさっそく使おうとしてくれること。

うっかり失敗しても「うんいいよ」と許してくれる。

できないことができるようになること。

個別にかかわったことで、成長すること。

嬉しそうに友だちのいいところを教えてくれること。

一人前の大人として話すと、ちゃんと話し合えること。

お願いすると、気持ち良く手伝ってくれること。

カーテンにくるまってぐるぐるしているのを見せてくれること。

授業の脱線話をとてももりあげてくれること。

全く縁のない流行歌やアイドルを詳細をレクチャーしてくれること。

一人でいると「なにしてんの」と話しかけてくれること。

似顔絵を描いてくれること。

同じ仲間として友だちのように接してくれること。

一生懸命準備した授業を、楽しんでくれる。

へたくそな字を書いても、うまいねとほめてくれる。

やりたいことは勝手にクラスに提案してはじめてしまうこと。

恥ずかしくていえない言葉をすなおに口にしてくれること。

学年のおわりに、しんみり涙してしまうこと。

大人しい子がじつは豊かな内面をもっているとしれること。

一週間先までの予定で、遊びにさそってくれること。

めんどくさいときは、断ってもいいこと。

体調がわるいとき、とくにやさしくしてくれること。

家族にも言えないことをうちあけてくれること。

いい授業をしたいとしぜんと思えること。

真剣にやっていることに一緒につきあってくれること。

勝手に引き出しを整理整頓してくれること。

本気でしかると、ちゃんと聞いてくれること。

つまらないギャグをスルーしてそっとしといてくれること。

思いもしなかった、いろんなハプニングを起こしてくれること。

学校には勉強よりも大切なことがあると教えてくれること。

学校が楽しいっていってくれること。

いっしょにいて楽しいこと。

「またねー」とニコニコしながら帰って行くこと。

まだまだありそう。

教員志望をふやすなら、まずは先生が機嫌よく、楽しくできるために、どんな環境をととのえてあげられるかから話し合うといいんじゃないかな。

「子どもの気持ち、データ化」は気持ちわるい

今朝の新聞に「子どもの気持ち、データ化賛否 集中度「授業変える指標」、生徒自身も確認」とあった。

ある公立中学校での子どもたち一人ひとりの脈拍を管理するデバイスによって、授業への集中度を把握して授業改善に役立てる記事がのっていた。

朝から、なんかモヤモヤした。違和感しかのこらなかった。それはなんだろう。

もし僕が「君たちのすべてを先生はわかっているんだ。さぁ、なんでも教えてごらん。脈拍おしえてくれよ」なんて気持ち悪がれる教師になりたいわけじゃないし、そもそも、すべてなんて知りたくもない。知らないことがあったほうがお互い平和にやれるってもの。

子どもだって「私の脈拍まで知られたくないわ」「マジやめて」って思うんじゃないかな。うん。内のクラスは確実にそう言ってくれそうだ。こんなことがはじまるとしたら、夜の校舎窓ガラスこわし続けてしまいそうだ。

この研究には、学習者、特に子どもたちに対しての権利意識が希薄すぎるのではないだろうか。知られたくないことは人にはたくさんあるはずだし、そうやって自分自身を育てていっているはず。なんでも誰流しでは自分がいなくなってしまう。

第16条 なんにしろ、ひみつは知られたくないなぁ。

“かってにのぞかれたり、ぬすみ聞きされたり(中略)ということはゆるされない。 子どもだって、ひみつにしたいことは、ひみつにしていいんだからね。”

小口尚子・福岡鮎美著『子どもによる子どものための「子どもの権利条約」』(小学館1995)P.66より抜粋

その人を理解しようとするための方法が脈拍を測って授業への集中度を知ろうなんて悲しすぎる。なんでもデータで集める前に、もっと話せばいいのに。そして、技術はもっと有効活用したほうがいい。

でもまてよ。もし職場の人が、こっそりと僕の職員会議の脈拍を測ろうとしはじめたら、僕はきっと困る。そして僕なんかのために「職員会議をもっと活発にしよう!たっぷりやろう!」となったら、さらに困る。

どんなときもそっとしておいてほしい。物事への参加には、自分のペースがある。主体的になるかどうかは自分がきめることだから。このあたりがかなり、相手への配慮をないがしろにしているのではないだろうか。

冷静に考えて、そもそもなぜこういう研究が必要なのだろうか。

もし子どもの集中度を教師が把握できたのなら、授業改善に役立てられる。ほんとなのそれ? 

授業に集中できていないことが、「どのように」改善するかは示されない。だって、それは学習者である子どもと、教師、それに教材が3つ重なり合って、はじめて授業は成立することだから。そこに脈拍はどう関係するのだろうか。教えてほしい。

だって、寝ている子がいれば

「おお!この子は僕の授業で、なんと夢中になっているのだろうか!?」なんて問いを立てるまでもなく、もうすでに夢の中だよ。突っ伏して寝てるの見りゃわかるじゃん。

ということで、技術を使おうとする方向性がおしいなと思う。

子どもには、人には秘密があって自分の壁をもって育っていくもの。みんなデータ管理されすぎる社会ってどうなんでしょう。

子どもたちのマスクがはずれない

コロナが5類になってから、もうマスク義務はなくなっているし、学校もその義務はもはやない。でも子どもたちは、なかなかマスクを外さない子が多い。9月からの猛暑で、自然とマスクがとれることを願っていたがそうはならなかった。

どんな気持ちでつけているんだろう。高学年になればなるほどその傾向が強いのか。僕の周りの学校でも同じようなケースをよくきく。

子どもたちは家では着けていないようだし、外出先でもあんまりつけていないとのこと。でも、学校にくるとしっかりと着けている。

もちろん通勤、通学の電車やバスの中で感染予防のためには個々の判断だし、それは一人ひとりが尊重されるものでいい。

また、思春期ならではのルッキズムとの問題でマスクをしないといられないケースならば、それでいいし、そうしてほしい。

僕がいっているのは、このこととはちがう。僕がもっている違和感は「なんとなくみんながつけているから、自分もマスクを着けている」こと。

「これまで見せていなかったから、顔をみられるのがはずかしい」

「友だちになにか思われないか、言われないか心配」

「マスクをとって、逆に目立つのが嫌だ」

こういった気持ちがしんみりと伝わってくる。

ある子が「今日、水泳のあと、勇気をもってマスクをとってみたら、すっきりした〜!」とジャーナルに書いてくれた。ドキドキしていたことが伝わってくるし、今後もそういう子がふえてほしい。

着けていないとなんか落ち着かない。習慣化して、そうなっちゃいけないな。マスクがパンツ化してしまうのは全くよくない。

もし、恥ずかしいとかいう気持ちがあるのなら、そういう気持ちなるのはしかたなけど、本当はちがうといってあげたい。

マスクを取ることについて対話してもいいけど、なんか腫れものをさわるようで難しそうだ。どうしたものか。

マスクが外せないのは、そもそも学校や教室が、安心安全の場となっていないからなのだろうか。そうなら、これはそのまま僕自身の学級経営にも跳ね返ってくることだ。

顔を見て、人と関わりたい。昭和世代といわれても、裸の付き合いをしたい。この2〜3年間、顔を見ないで育ってきている子どもたちの心に僕は大きな影響を与えてしまっていること、これを一番懸念している。

始業式の自己紹介で「先生はほんとはこんな顔をしています」といって、まるでのっぺらぼうが前髪を書き上げるように、マスクをじわじわとりはずし、顔全体を示す。子どもたちはそれに、あぁーとか言いながら拍手をする。いつか、こんな儀式があったことを笑って語り合える日がくるといい。

もし僕が、過激派組織マスク狩り部隊(通称MGB)の幹部候補として煽動しはじめていたら、そんな僕を全力でとめてほしい。

ネコってほんと平和。へそ天で無防備。かくありたい。

頭の目かくし「思い込み」をはずすのは自分しかいない

昨日のつづきから。

砂漠問題のおもしろいところには、二つ目は、頭の目隠しをとれるか問題がある。

算数・数学するときに、自分なりの思い込みをどうしてもはずせないことがある。それには、まず「自分の今の考えは思い込みなんだ」と俯瞰して自分の考え方をモニタリングできることが最初の一歩となる。

思い込みをしている限りでは、創造的な問題解決はできない。思い込みをはずすミニ・レッスンで毎回つかうのが九つの点。どれか1点から出発して、一筆書きの要領で4本の直線を引いて、9つの点をすべて通るようにできるか。ぜひやってみてください。といかに自分の思い込みの強いことか!

この砂漠問題は伝言をつたえるのが「一人だけ」でもいいことに気がつけるかがカギ。「二人」で伝言をつたえにいかなければならないと思い込んでいると、この問題はスタックして頓挫してしまう。

さらには、食料を確保するために「帰す」発送も重ねて必要になる。このあたりの頭の柔軟性が問われている。

子どもの感想に「『うめる』『渡す』『帰る』を使って解けました。自分がつまずいているところにも気が付きました」とあったが、ひらめくとそういうことであって、子どもはとても柔軟だ。なんせ、問題解法のパターンを知らないから、今もっている知識で格闘している。

ただ、誤解してほしくないのは、この良問をといている数学者の時間は、なにかエンターテイメントしている時間とは大きくことなっていること。そして、問題がとける/とけないとか、考えることそれ自体に夢中になっていることのみに、価値があるのではない。

問題解決のサイクル「問題→計画→解決→ふりかえり→共有」が回っているかであってこその数学者の時間なのである。ここに「ためす」と「たしかめる」の数学的思考が使われいて、この思考法を自覚して使えるようになっていってほしいと願っている。そしてそれはとても便利な道具だし。

日々の学習内容をみにつけるといったミクロ概念の獲得ではなく、考え方や発想の方法といったもっと学習の転移が可能なマクロ概念の数学的思考を身につける時間でもあると考えている。

この時間中、僕はといえば、子どもたちの話をよく聞いている。みんなそれぞれしゃべりたいことを夢中で話している。子どもたちの頭の中でどんなことが考え進んでいるのかのぞきにいく。そんなおもしろく、ゆったりとした時間。

次回は、この問題がもっている特徴をもとに、自分でも問題づくりをして、さらには解き合う時間へと進んでいく。

どんな作品がうまれるのか、楽しみで仕方ないなぁ。

「数学者の時間」再開、まずは砂漠の横断問題から

久しぶりに数学者の時間が再開した。

いつもはなにかを学んだり、身につけたりする算数授業とちょっと異なり、この数学者の時間は、考えることを楽しむ時間。もちろん、できなくてもぜんぜんOKだし、まちがったほうが実はよく考えている。

子どもたちは「あぁ、ひさしぶりの数学者だ」と、普段の算数とはちがった学ぶモードから考えるモードに頭のチャンネルが切り替わっている様子だった。

今回はこの問題を選んでみた。この問題は6年生にふさわしく、二重の難しさをもっていると考えている。一つ目は問題の世界に入れるか。二つ目は、頭の目隠しをとれるかである。

一つ目の「問題の世界に入れるか」。

この砂漠問題はていねいに「計画」づくりが必要な問題。ここにつまづいてしまうと

「そんなの1日分の食事を二人でわければいい」

「一人だけ生きて帰ればいい」

「何度もスタートに戻って食料を調達して、なんども食料をうめまくればいい」

など、そもそもの問題設定が崩壊してしまう。

数学的な文法に乗れない子は、現実的に考えてしまい、限定された条件下で考えるおもしろさが味わえない。問題にのれない状況がうまれてしまう。

そこで「求めること」にあわせて「わかっていること」をひとつひとつ確認し、丁寧にひもといていくことで、この砂漠の世界設定にのれるようにする。特に「2人が同時にスタートする」ところは条件として落としてはいけないところだ。

僕は問題を選ぶときに、自分で解いて

「こういうつまずきがでてくるだろうな」

と予想しながら準備するが、僕の予想の斜め上をいくのが子どもたちの思考。このあたりは「あたってくだけろの精神」で、実際に砕け散って、その経験をつみかさねているところ。

授業の後半、数人が「わかった!わかった!」「もしかしてこうかな」と嬉しそうに解答例を説明しにきてくれる。

答えは僕の机にもあるので、自分で答え合わせにいけばいい。それなのに、このわざわざ伝えたくなる何かがうまれてしまう。そう。共有したくなっちゃう。いいたくなっちゃう。こんなとき、僕は3人ぐらいに分身してケンシロウよろしく夢想転生できるといい。ホワチャ〜!

ここが数学者の時間のやっていて、おもしろいところのひとつ。いつもの算数授業で、分かったときはひっそりとほくそえむぐらいなのに。。。

この砂漠問題は、とくにクラスでやんちゃな子ほど、食いついてきた。素直でかわいいなと思う。もちろんできなかった子はまだ大勢いて、「次こそは」「もっと考えたい」と来週を楽しみにしてくれているようだった。

あしたに続く