学級づくり

算数ノートに自分の考えを書けない理由

数日前に、自分の考えをノートにメモすることの価値について書いた。

記録しないなんてもったいない!

http://igasen.xsrv.jp/wp/2023/10/13/記録しないなんてもったいない!/

よいと分かっているのに、なぜ書かないのか、なぜ書けないのか。そこへの洞察が昨日のLAFTのブッククラブであったので、それこそメモしておく。

思考のプロセスを記録することの恩恵は、自分の考えをゆっくりしてくれること。自分の考えを記録することは、自分の思考スピードを落とさせてくれる装置でもある。

自分がどのように思考し、どのように間違いを犯し、どこに解決の糸口がうまっているのか、その記録から立ちあがってくる。

こういう練習を積み重ねることで、ますます自分の内面のできごとに焦点をあてて、言葉にすることに長けてくる。自己モニタリング機能を高める練習にも鳴っている。

思考プロセスを書かない手はない!

にも関わらず、どうしてその過程を自分の考えをノートに書かない子がいるのだろう。

思考を可視化することって、プライドとの戦いだと思う。

・本当はもっとすんなりとスマートに解決にいたりたい。

・自分は失敗しないで巧みにできる。

こういった正答を求めている「かちこちマインドセット」が通底している。それもそのはず、教科書ベースばかりの算数・数学は寄り道するほど時間にゆとりがない。つまり失敗したり、スタックしながらその失敗にこそひらめきの価値があると「自力で」ワイルドに問題解決していく時間が保証されにくい構造となっている(ここに数学者の時間を提供できるその価値があると考えている)。

実際に、ノートに自分の問題解決の足跡をふりかえってみると、言い訳ができない。その言い訳できなおい自分と対峙するしかないのである。中には、まちがえをすぐに消しゴムで消そうとする子もいる。そういう子はかならずといっていいほど、正解/不正解の算数・数学で傷ついている経験がある。

数学者の時間では「うっかりミスは別としても、しっかり考えたことでまちがったところはのこしておいて。本当に消したいところは×だけしておいて」と伝えることが多い。

まちがえても、ミスしても、それがうまくいくコツというリッチな問題解決経験に乏しければ、それはメモすることはおっくうとなる。よりよいノートモデルを示したら、上手くノートを書けるようになるということだけではないことに気がついた。

書くことが自分をよりよくしてくれることに気がつきさえすれば、自然とかけるようになってくるとおもう。これからも授業では書くことにこだわっていけるといい。

このブログも等身大の自分自身の記録だなぁ。まずは言葉にしてまな板にあげる勇気が必要なのかもね。

だれかが木のうろにドロダンゴをかくしてた。よくみたらそのクモの巣の構造が数学的でおもしろい。

過保護すぎる算数問題

今日はLAFTで少しだけ最近の数学者の時間の実践話をした。

昨日の「ロープにつながれたヤギ問題」の価値を再確認できたことが今日のハイライトだった。

実際に6年生の子どもたちだけでなく、LAFTのメンバーであっても次のような問題のミスリードが生まれていたことがわかった。

そもそもヤギは小屋の中からどう出るの?

小屋って柱4本でしょ?

小屋の中には芝生が生えているの?

これらはどれも素直な反応で、決しておかしなことではない。以前似たような問題を解いたことが合って、自分の中に問題の形式がストックされるような一般化されていない子にとっては、こういった理解は普通に起こってしまう。

本来考えるべきはずの問題の本質と違うところで躓いてしまう。問題の持つ特徴に行き着けないことが問題だと思っていた。こういう反応が起こってしまうことは、そもそも問題の設定がまちがっていると捕らえていた。でも、それはちがうのかもしれない。

それこそ『教科書では学べない数学的思考』を読むことで、わかってきたことがある。それは「特殊化(ためす」ことの重要性だ。

問題に出会って、実際に解き始めるとき、上のような反応があっていいし、そう予想たてて実際にノートに書き始めたり、ためしたりし始めることこそが、特殊化の一歩のはず。これこそ歓迎され、認められることだ。

問題の意味を確かめるために、特殊化して問題を自分に引き寄せていると理解すべきだった。

そう思えなかったのはなぜだろう。それは、いつも解きやすいやわやわの問題を与えられているからなのだとおもう。この整然とされて迷うことのない条件文と求答文の問題ばかり!解いていることが、「よく分からない問題をよくわらかないまま、自分のものにしようと試行錯誤する力」を奪っていたのかもしれないことに気付いた。

普段から、教科書問題にならされ過ぎてしまっている人にとっては、「ロープにつながれたヤギ問題」は、初めて読んだ時、これ問題なのか?と思うのが自然な反応だとおもう。

特殊化試すことで、問題を自分に引き寄せるこのプロセスを経験することから始める。それは数学的にとても意味のあることに気付けた。

これまでこういう問題を提示したとき、子どもが勝手な解釈をし始めることで授業にのれないで失敗だと思っていた。そのため、教師が問題の入り口でしっかりと「わかっていること」「もとめること」を規定してあげることが必要だと理解していたけどそうじゃなかった。

問題を自分に引き寄せるための特殊化が足りなかったのかもしれない。とことに気がついた。

たまにはこういう不親切なもんだいもいいものだ。そしてそういう問題こそ、オーセンティックで日頃私たちが触れている日常の問題だからだ。世の中の問題はそもそも何が問題かもわからない。今ある条件をフル稼働させ、特殊化して問題の感触を自分に引き寄せることで、問題を理解する。こういう野生の力が必要なのだと分かった。問題も過保護すぎるとよくないな。とわかったのが1番の収穫。

教室の戸締まりにいくと、机の上に秋の収穫がおいてありました

数学者の時間 特殊化(ためす)から問題解決を

ちょうど円の面積を学習している。そこでブッククラブ用に読んでいる『教科書では学べない数学的思考』からの問題を扱った。

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この良問のおもしろいところは、問題が不親切なところ。一度読んだだけではとてもわかりにくい。だからこそ「特殊化(ためす)」をやってみて、問題が解けそうだと身近に感じられるようにする経験ができるよいリッチな問題だ。

今日のミニ・レッスンでは、図や表、数値や記号、ものをつかって特殊化をすることを確認した。

ときはじめている子どもたちの様子をみていると、同じようなつまずきをみせた。

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ひとつの角をもとに、6mの円をえがいてしまう。つまり、小屋を壁のある小屋と認識せずに、柱だけの小屋として理解している様子だ。(昭和世代には当たり前の犬を小屋の外につなぐイメージは令和の子どもたちにはなく、ヤギも小屋の中で飼うイメージだとか)。

そもそも小屋って中に草ないし! だからあとで小屋分の面積をひくらしい。

しかし、小さな端数の面積がでてきてしまい、どうしていいか途方に暮れる。これを解くにはピタゴラスの定理が必要となるのでクラスの秀才でも「チョットむり」だそうだ。

そこで、立ち返る。この特殊化ではだめだったことが。そこにカンファランス。僕はなんと声をかけていいのか思案していた。

とてもいいスタック(まちがえ)をしている。自分なりに挑戦してみて、どうもうまくいかないことがわかる。このスタックをもっとわかりやすいスタックとしてどうわたしていけるのか。そのための支援ってなんだろう。できないことを楽しむってどういうことだろう。

他の子の特殊化は実際に「もの」をつかってやっていた。スズランテープを使って実際にやっていた!そこで、ロープは小屋を越えて伸びることはないことに気づけたようだ。特殊化の勝利。これはこれでいいと思う。

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こういう力技は好物です。どんどん特殊化していってほしいです。特殊化のよさを味わえた良問でした。

次回は、この問題の特徴を使って問題づくりへと進む予定。

帽子をかぶらないという思春期

今朝、朝スポをやっているときに、ふと気がついたことがある。

本校では、朝の時間はいわゆる全校朝会とよばれるものがない。クラスで話し合ったり、自治活動で委員会の子どもたちが御用聞きにきたり、漢字の小テストしたり、算数テキストを進めたり、のんびりスタートしている。これはとてもいい。朝から全校一斉にあつまるのって時間的にも1日のサイクルでもしんどいものだ。

ちなみに、うちのクラスは毎週木曜日が朝スポといって、朝、体育館でクラス遊びをしている。これは子どもたちの楽しみの一つだ。

リレーをやったり、鬼ごっこやったり、バスケやったり、オリジナル遊びだったり。今朝は恒例のドッジボールだった。子どもたちをみていると、ふと気付いたことがある。

それは、体育用の紅白帽子をかぶっていない子が増えてきたことだ。係の子達が「赤と白にわかれてやってねー」と言っているが、かぶらない。ドッジボールをするのだから、ゲームの運営上不都合が生じる。

かぶらないメンバーの顔をよくみていると、最近、急におしゃれを意識するようになってきた子だちだ。ヒマさえあれば、鏡の前で前髪をミリ単位でマッシュルームに整えている子。姫毛に命をかけて、お手入れしている子。みんな思春期まっただ中だ。

帽子をかぶると、髪型がくずれてしまう。これはドッジボールの命よりも命取りだ。実におもしろい。

しかし、手には帽子はもっている。このあたりがかわいい。一応、ルール上チームカラーには属しているようだ。

これまでの僕の学校経験では、全校朝会のときには帽子をかぶっていなければこれこそ命取りだった。しっかり教師の指導力が行き届いているか、帽子着用は教員の指導力のバロメーターと化していた。名札もそう(ちなみに本校に名札の着用もないしそもそも名札をもっていない)。僕はまぁ、お付き合い程度にはやっていたが、内心、どうでもいいと思っていた。

一方で帽子を目深にしっかりかぶり、ドッジボールに汗をながしている子たちをみると、それはそれでいい。そして少しずつ、周りに巻き込まれながら、自分自身をみつめていく思春期に突入していくんだと思うと、なんだがほっこりする。

これからもかっこよさやかわいさをそれぞれ追求し続けてほしい。まぁ、登下校の制帽をかぶらないのは気になるところ。声はかけるけどさ。

忙しいとオモシロいことがはじまらない

さて、今週末にLAFT(174回目)で算数の実践報告をする予定になっているんだけど、まだ何も手がつけられていない。

修学旅行がやっと終わってその報告会づくりの計画を始めたり、会計報告やったり、学校便り報告書いたり、職員会議用の修学旅行報告書書いたり、報告書だらけかい! と、今はあれやこれやとゆとりがない。

人はひまな時間がないとクリエイティブになれない。そんなの当たり前田のクラッカー。ゆとりがなければ、おもしろいことは思いつけない。だから、ひまってとても大切にしたい。

よく「頼み仕事の忙しい人に任せるといい」と言われるけど、そんなブラック企業なことはやめてほしい。忙しい人は忙しいが為にせっせと働いているのに、そこに塩をぬるように、さらに忙しくしないでほしい。

僕は忙しいときほど仕事をしたくなくなる。ふとんをかぶってねてしまいたくなる。できるだけそっとしておいてほしい。どうしてもやらねばならないときに、ふだんの120%の力を発揮するから許してほしい。

ということで、いろいろなことが手つかずで、追われる身となっているハリソンフォードの気分を味わっている。そのやり場のない気持ちをWowWowと叫びたくなる。

でも、せっかくだから実践報告では普段の算数とは異なる考えることが楽しい時間を過ごせていること、それが個人の活動を越えて、コミュニティというあつまりで生まれていること、その価値をあらためて提起し直したい。忙しくてできないかもしれないけど。その気持ちはあるとだけ表明しておきたい。

ということで、はやめに寝ることにする。おやすみなさい。

心のビタミン剤、それはねぎらいの言葉

今朝、教室に顔を出すと、机の上に連絡帳がおいてあった。

朝から、教員の机に連絡帳があるのはゆゆしきこと。悪運立ちこめるそんな1日の始まりの合図だ。これは警戒しないといけない。

開いてみると、なんてことはなかった。修学旅行中に声をかけていた保護者の方から感謝の言葉があった。

ふむ。

こちらは当たり前だと思ってやっていたことだけど、声をかけた子は家に帰ってからそれが嬉しかった、安心できたことだったらしい。

たまには人の役に立つこともしている自分をほめたい。

連絡帳に感謝の言葉、たったそれだけのこと。それだけで、1日が気持ち良くスタートする。先生ってそんな仕事。

それだけに、ほんの一言だけでもねぎらいの言葉をかけることは大事なことだと思う。

僕は小まめに伝える方ではないので、目力で伝えたいと思っている。しかしそもそも視力も弱いのであまり効果がない。やはり言葉で伝える事は大切だ。だから、せっせと子どもたちのジャーナルに返信を書いている。自学ノートもみられるときは返事を書くようにしている。

僕ら教員はだれかに認められるためにやっていることはそんな多くないと思う。多くの仕事は自分の自己満足が多い。

もちろんお付き合いの仕事もあることはあるが、結局はそのさじ加減は自分が決めている。それだけに、誰かから感謝されたりすることは最初から期待していない。

けれどもやはり、がんばったらがんばったなりにお褒めの言葉をもらいたいものだ。教員とはそういうものだ。覚えておいてほしい。僕らはもっとエネルギーチャージされてしかるべきなのかもしれない。

ここまで書くと、やることやってから言えといわれそうだが、あえて言ってしまおう。

ふりかえってみると、いい管理職や信頼できる学年の先生たちは、必ずといっていいほど、ねぎらいの言葉を自然とかけてくれていた人達ばかりだった。そしてこれまで出会ってきた保護者の中にもそういうモデルとなる人がたくさんいてくれた。

今朝、職場に顔を出すと、多くの先生たちから「修学旅行おつかれさまー」と声をかけてもらった。いい職場だと思う。

やってもらって、やってあげてあたりまえと思わないこと。僕も少し意識して感謝の言葉を伝えていこうと思えた朝の一幕だった。

この修学旅行で一番うまかった肉玉そば。

健康診断のショウモナイ話

今日は修学旅行の代休。でも職員向けの健康診断が学校であるので行ってきた。

毎年、くりかえされるんだけどいつもそれって「ダメじゃん」っておもっているショウモナイ話。それが聴力検査。

その聴力検査用の部屋に入ると、音が入ってこないようにするためか、ていねいにおばちゃん看護士さんがドアをしめてくれた。僕は気を利かせてヘッドフォンをかぶろうとすると、おばちゃん看護士さんがとっさにとめて「私がつけますよ」とおもむろにかぶせてくる。

ははん。聴力検査の成績を上げようとわざと耳からヘッドフォンをずらそうとする輩がいるんだな。僕はそんなズルはしないでおこう。

自分で微調整をするけれど、いつもつかっているボウズのヘッドフォンとは着け心地がまったくことなり、どうも耳にフィットしないで着け心地が悪い。そもそもデザインもウルトラ隊基地でつけているような昭和感満載のヘッドフォン。

いよいよだ。おばちゃん看護士さんがマシンを操作する。僕はそのマシンを背にして座っている。

「音が聞こえたら手を挙げてくださいね」といわれ、おばちゃんはマシンのボタンをカチッとおしてしまう。おしてしまうので、「あぁ、いまからあのピーという音が僕にきかせてくれるのだ」という心がまえが事前にできてしまう。そしてそのとおりになり、言われるがままに僕は手を挙げる。

こういう時に優秀さを示そうと、カチっと同時にサッと手を挙げてしまう自分がいた。

カチ、サッ!ピー。カチ、サッ!ピー。

はい。反対

カチ、サッ!ピー。カチ、サッ!ピー。

リズム良く手を挙げて、僕とおばちゃんとのセッションが終わった。

あの聴覚検査、意味ないよね。ボタンの音とそのリズムでわかるじゃん。そしておばちゃんも分かっていてもうそのリズムでよしとしているし。

このショウモナイ話。毎年かんじていたことだけに、今日、ここにこのタイミングで供養できてよかった。

ほんとはまだまだあるのよ。レントゲン両肩おしつけ地獄とか、聴診器診察時目線気まずい問題とか。


大久野島から本島へ変えるときの船内。これってとれちゃダメなやつじゃん。

修学旅行なのに!校長先生のビンゴ大会と大漁釣果

広島へ3泊4日の修学旅行にいってきた。二日間は広島市の平和記念講演でみっちりと平和教育について考える時間を。のこりの二日間は大久野島へわたり、被害だけではない日本軍の加害についても、その場に行って学んできた。

あまりにも戦争のことが一気にふりかかってくる日程だったため、気持ちがなかなか追いつかない。子どもたちも同じだようだった。

だからおもいっきり遊んだり、自由な時間がじつはとても大事な時間だったと振り返ってみておもう。

「食事のあとに10分だけもらえないかな?」と校長がお願いしてきた。「ビンゴ大会やって、みんなで楽しもうよ」とお土産コーナーで子どもたちが喜びそうなぬいぐるみやキーホルダー、ご当地スナックや文房具を楽しそうに選んでいた。もちろん校長の自腹だ。

いろんな修学旅行はあるにせよ、校長自らが率先して楽しんでいる学校ははじめて。最初は「そんな時間ありなのー?」とびっくり。でも、あまりにも重い歴史と事実に触れ続けて、みんな心が疲れていた。子どもたちがふっと楽しんだり、盛り上がったりする時間がやっぱり大切なんだと、やってみてわかった。

もちろん、食後の抽選会はおおもりあがりだった。

僕はといえば子どもたちとは昼間一緒に釣りにいった。「これまでの経験で1匹つれればいいほうだよ」と聞かされていたから「ならば、夕食のおかずに一品ふやしてやろう」と釣りに興味のある子どもたちと気合いをいれていった。

今年の子どもたちは魚愛が強すぎる子たちばかり。防波堤から竹竿をたらすと、すぐに入れ食いだった。海の神様が微笑んでくれた。ベラ、カワハギが大量に釣れた。「こんな経験はじめて!」とみんな嬉しそう。小さめのオコゼやフグもつれたが逃がしてあげた。バケツいっぱいの海の幸にめぐまれ、調理場にたのんで夕食に唐揚げでだしてもらうこととなった。

白身魚のベラやカワハギは実は高級魚。身がやわらかくて本当に美味しかった。子どもたちは自分たちがつった魚がほんとに夕飯にでてくるとは信じていなかったようで、目の前に大量の唐揚げがでてきたときには、大興奮だった。

学ぶことって、バランス。息抜きがないとよりよく学びにむかえないなぁ。

書き続けてみてわかった4つのこと

毎日書くときめてから、すでに50日がたった。よくまぁ細々とつづけてこられたものだと我ながら関心関心。

「さすがにもう今日は書くことないなあ」と思える日もあったが、いざPCの前に座って書き始めてみると意外や意外。不思議と何か書きたいことが到来してくる。そう到来する。

書く前まではまったく予想もしていなかったことや、考えてもいなかったことが跳んでくる。自分の中にこんな自分がいたんだと驚きがたびたびあった。

書き続けてみて、わかったこと。その1

書く前には書いた後の自分のことは想像つかない。これが身をもって分かったこと。書くとは予想もつかない変態だと思う。僕はそういう変態をくりかえしてきた。と書くとなんかあやしいけどな笑。

書き続けてみて、わかったこと。その2

1日のうちにあったもやもやが言葉になると、なんだか自分をいやしてくれる。心おだやかになれる。ふりかえってみて、こういう時間がまた大事だったりもする。

書き続けてみて、わかったこと。その3

何か書き上げられるとスッキリするし、とてもその1日に大事な意味を感じられるようになった。決してたいしたことを書いたり、あったほとでもないにもかかわらず。そう思えてしまう不思議な力がある。日々を消費しないでいられた気がする。気がするだけだけどな。

書き続けてみて、わかったこと。その4

書き続けるコツがわかってきた。日々、クリティカルヒットなことは書けないし、そういうことは期待していなかった。わがままに書きたいことを、思ったことをかくだけ。自分自身にも期待していない=ハードルを下げることが、継続のコツだった。

結局、日々、たんたんと記録していくこと。これだけで、自分との出会いでもあり、それがまた自分を励ましてくれるものだったりもした。

明日から、修学旅行の4日間。たぶん大忙し。しばらく書くことはお休み。また復活できるか不安もあるけどそのときはまたそのとき。

そうそう。習慣といえば、朝トレも結局は毎朝続き、3週間が経った。明日の修学旅行バッグには、トレーニンググッズをしのばせておく変態がここにいる笑。しっかり学んで楽しもっと。


今日は学園で一番大きいヒマヤラ杉の直径を条件つけてしらべてみた。

この年末。KAI(甲斐埼博史さん)から学ぶ機会を逃すと、あなたはきっと後悔する

今回、どうしてもKAIさんから学びたい。念願かなった研修会。

LAFT2023冬合宿 KAIさん教育実践から学ぶ

現在、軽井沢風越学園の副校長をしている甲斐埼博史さん(以下、いつもどおりKAI)。

どうして、KAIから学ぼうと思ったのか。

先日、ある研修に顔をだしたところ、偶然にもそこにKAIもいた。グループ対話もまた偶然いっしょのグループだった。そこで今、KAIがやっている「体育」といういう名のアドベンチャー。もう突き抜けて面白かった。

KAIの「今」の実践を知るには、軽井沢風越学園のHPからこれまでの投稿が読めてお得。これを読むだけでも、KAからが体験学習が人をどう育てるのか、そのリアルが伝わってくる。

そして、その場にいた若い先生がKAIに質問した。「そのカリキュラムで学校で教えるべき事をおさえられるのですか?」

それのKAIからの返しがまた印象的で。

「じゃぁ、あなたは先生が教えれば、子どもたちだれもが同じことを学べると思いますか?」(正確には覚えていないが、たぶんこんなかんじのことだった)

教師がたった一つのことを教えたとしても、学習者によって何を学ぶかは人それぞれちがう、ということだ。カリキュラムありきではない。学習者ありきだ。もう次元がちがうのよ。

若い先生は、職場で言われたことや教えるべき事をせっせとカバーするための教師のためのカリキュラム。一方、KAIは学習者の立場に立ってその学びに一体何がおこっているのか、のぞいてみることが大事だとしずしずと語ってくれた。

ここのブレなさ加減。そうだそうだ。KAIってそういう先生だった。自分の中に大切だとおもうことから、一切ぶれない。妥協しない。やるときめたらやる。

𠮷田新一郎さんが以前口にしていたことに「KAIさんはやると決めたら、たった一学期間でライティング・ワークショップの実践から原稿までかきあげてしまった!」マッチョかっこいい。みならいたい。

サークル対話でのやりとりを聞いていて、「あぁ、KAIからもっと学ばせてもらいたいな」と素直に思った。

そして、今年はKAIの教員ラストイヤーでもある。その集大成かつ野望かつこっそりあるだろう失望、語ってもらいたい。

これは僕の中においても歴史にのこる研修となるはず。はたまた、学習仲間の3号がきりもみする箱根温泉「みたけ」でおこなわれるのも嬉しい巡り合わせだ。

「子どもは(人は)誰でも有能だ」いつもお酒を酌み交わし語られ続けたKAI語録。世界平和を願っている静かなる熱い先生。それがKAI。

KAIとの研修会は以下のURLから申し込めます。のこり若干名となりました。お急ぎください!そして一緒に学びあいましょう。

https://www.kokuchpro.com/event/4c67517c528e192a5887ee62ee22f6e4/

もう何十刷りなんでしょう、この本は教室に毎年おいてあります。子どもたちも好きでパラパラとよんでいる本。一緒に原稿カンヅメして書いたのが懐かしい。

https://amzn.to/48WRrgW