子どもたちに「あいだの時間」をあげたい

新学期の短縮日課。やることを全てリストアップして子どもたちに示しました。その中で何をどの順番でやるか、またはやりたいことをたしてみたり、クラスで話し合って決めてもらい、この二日間の過ごし方を話し合って決めてもらいました。

すると初日の1番最初には「しぜん広場で遊ぶ」こと。次に「サークル活動」をやること。そして「休み時間」。初日はただの遊びしかないじゃん。

あとさき考えずに今を生きる子ども。好きです。

6年生なのにしぜん広場がチョイスされるって僕はこっそり嬉しいです。さて、どうして僕は子どもたちと朝になるとしぜん広場に行くんだろうか。

学校で人が何かを学ぶことって、その教科だけでは完結しないことが多い。人が学んだり何かを考えたり、その人らしい姿を発揮するのは、実は休み時間だったり、朝の時間だったり放課後だったりそういう「あいだの時間」だと思う。

そして、子どもたちにはこの「あいだの時間」がとても大切なんです。何をやってもいいし、やらなくてもいい時間。ひまでひまでしょうがない時間。そういう時にこそ、その人らしさとか、その人のもつ興味関心がしぜんとにじみ出てくる。「何かやろうかな」とはじめたことが、その人の興味関心になるはずだ。

でも、今の子どもたちはこの「あいだの時間」がない。そして忙しい。何か常に、行事や習い事、何かに追い立てられている。僕が子どもの頃はこういったひまで自由な時間は結構あったと思う。

教科ごとに切り分けて、こまめに練習したり、学んだりすれば、人は学んでいるって風潮はちょっと違和感がある。僕は、もっとそれぞれをうめる「あいだの時間」を大切にしてほしいと思う。

「イガせん、こっちきてごらんよ。エビが大量にいるよ」、さそわれるままに池をのぞきに行くと、夏休み中に大量発生していたヌマエビだらけだった。なんだか寿司やで食べるしらす丼状態だ。

網で夢中になってすくっている子。そういうのを容赦なく手でねりねりして触り確かめる。それにむらがってくる子どもたち。子どもたちの過ごし方はおもしろい。もちろん、我関せずと草むらで遊んでいる子たちもいる。

自然の中に入ると、その人らしさやその人の興味関心、やってみたいこと、そういうものが解放されると思う。一年中、ヤゴとっている子もいたしな。

あなたはなにをしてもいい時間があったら、何をやりますか? 何をやりたいですか?

対話には聴くことよりも先にもっと大事なことがある

先日、職場の1学期実践報告会で司会をしているときのこと。「話をきいて、どなたか何か話したいことはありますか?」ときいてみると、先輩の先生から「この話に関係ないんだけど…」と前置きをしてから言われたことがありました。

「なんかイガキさんの質問の仕方がとてもいい」と、まさか司会進行の評価をもらいました。びっくり。

実践報告で、僕は報告者に何をきいていたかといえば、

「その考えに至ったのには、どんな体験とかがあるの?」(体験)

「その体験には、どんな気持ちがあったの?」(感情)

「何を大切にしているの?」(価値観)

この3つを意識してきいていました。まさか、自分のファシリテーションがほめられるとは思ってもみなかっただけに、素直に嬉しかった。

この3ヶ月間の僕の学びのテーマは「対話」でした。東京虎ノ門へ熊平さんのもとに通って「対話」についての企業研修を継続して受けてきました。それだけに、対話が一歩うまくガイドできるようになって嬉しいのです。

これまでの僕の教員人生は、自己中クソヤロウでした。人の話を聞いているときは、すぐに評価判断をしがち。そのおかげで、相手との関係の中で、相手の価値を認められずに、一緒に新しいアイディアを生み出すことができない自己クソ30代をすごしていました。でもそのクソのおかげで今回の研修につながることもできました。

対話の場では話をきく前にもっとすることがあるんです。いくら聴いてもその相手の意見を瞬時に評価判断してしまう自分がいることをまず認識しなければいけなかったんです。

つまり自分へのリフレクションがアマアマだったんです。自分の中に、どんな意見やどんな体験やどんな感情やどんな価値観があったのかが、そこを自分でわからなければ、瞬時にやってくる自分の評価判断に巻き込まれてしまっていました。

今では、だいぶすぐに評価判断をくださない自分になれるようになりました。でも気を抜くと、すぐにいい/わるい、すき/きらいが鎌首をもたげてきます。こればかりは日々の修行です。

相手の話を傾聴するには、まずは自分の中にある価値観に目を向けることからはじまります。僕はこのことを学ぶためだけに、3ヶ月間学びに通った価値があると思います。

みなさんは、どうやって相手の話を評価判断しないで、聴いていますか?

この研修中は、毎回なっちゃんたちが迫力あるファシグラをしてくれてました。ほんとすごい。授業にきてほしい。

2学期初日、新しくはじめたこと

ひさしぶりの学校は、いつもと変わらないものでした。

ひたいにそり込み入れてオラオラヤンキーになっている男子もいませんでしたし、もちろん扇風機女子軍団もいませんでした。あの心配はなんだったのか。

子どもたちは久しぶりの感じで、どこか緊張した面持ち。近くの人とおしゃべりしてみたり、身長を比べてみたり、男子はくっつき抱き合ったりしながら、心のチューニングをはじめているようです。

「みんなよくきた、おうおう」とお互い励まし合いました。

せっかく1学期に、澤田さんからライティング・ワークショップについておそわったんだから、今学期は「書くこと」を大切にしていこう。今しか、感じられない気持ちや興味関心、悩みごとふくめ、言葉にして日々、かさねていけるといい。

「これまで使っていたジャーナルある?」ときくと、一人を残してもってきていない。「忘れた」「家だ」「そもそももってくるなんてきいていない」「もっている人、まじキセキ!」など、さっそく新学期の洗礼をうける。

こっちもそうだと思ってたから余っているノートでジャーナルを用意しておいてあげた今回はノート三分の一サイズ。高学年になるとなかなか忙しくて、あわただしく、じっくり書く時間がもてないときのほうがおおいから、このサイズが僕は気に入っている。

子どもたちのジャーナルには「夏休みかえせ」「絶望」「夏休み終了の1日目」と、夏休みの終わりを憂う心の叫びがつづられていました。わかりみしかありません。と返信する。本音の交流がかわされる。

でも不思議と「友だちと会うと楽しみがわいてきて、夏休みもいいけど、学校もいい」とむすばれていました。いい子たちだ。

子どもたちにも書くことを課すのなら、僕も同じように、日々をつづっていこうと思う。言葉にしないと流れて忘れてしまいそうなこと、ちゃんとつかまえていこう。

あの記事よかったよ。あの記事わかるわー。

何人かに声をかけてもらって嬉しいものです。へー、みんな読んでくれているんだ。いいねを押さないまでも、こっそり読んでくれている人もいるだろうし。

まぁ、そんなに意味のあることを書くことじゃないから、子どもたちにならって、僕も気軽に書くことは続けていこうと思う。

みなさんは、2学期、なにか始めたこと、はじめたいことはありますか?

先生だって休みたい

あぁ。夏休みが終わる。明日から学校だ。いやだぁ〜。もっと夏休みしていたい。いたいいたいのよ。

いい大人になってもやっぱり夏休みが終わってしまうのはかなり悲しい。心の中は井上陽水、少年時代の無限ループ。

無理しなくていいよ。

この言葉は子どもだけじゃなくて大人もそういってもらいたい。

なんら変化のない平穏な日々が終わっていく。毎朝、起きて、書いて、読んで、運動して、食べて、寝る。こういうていねいな日々がとても幸せだった。

明日からはまたドラマティックな日々に忙殺されていく。そう考えるとちょっとビビってくる。ガチンコファイトクラブ並みに一体どうなってしまうのかと叫びたくなる。

久しぶりに子どもたちと会うと思うと緊張してきた。名前を果たして覚えているだろうか。呼びまちがったりしないだろうか。名簿で音読しておこう。

急に、すごい反抗期になって先生をいきなりいびってきたりしないだろうか。扇風機のついたチョッキを着てきて、服だからいいでしょ!と女子たちが一同に言ってきたらどうしよう。とばされそうだ。心配はつきない。

でもね、やっぱり学校はじまってみると、楽しいことがたくさんあることも知っている。今いるところが、居心地よすぎて、なかなか一歩踏み出しづらくなっているだけ。

さぁ、チャレンジだ。むりしないで少しずつ体も心も学校にもどっていこう。みんなに「ひさしぶり、えらいえらい。学校によくきた」と歓迎会からはじめよう。

まずは明日、朝、起きられるかな。心配はつきない。

同僚がおもしろそうな「すごろくカード」をみせてくれました。僕は学期の始めはよくみんなですごろくをつくるのですが、こういうのを見本にして「夏休み」をテーマに個々人でつくって、マス刷りし、グループで共有でして、オリジナルすごろくつくったらおもしろそう。やってみよっと。

あなたの学校は、大人が本気で楽しんでいますか?

夏休みの研修で、本校ではどんな学校にしたいかを話し合いました。うちの学校は、こういう時間をちゃんととって、定期的にふりかえり、未来を語り合う時間があることはとても素晴らしいこと。

これまで経験してきた、あの学力調査の結果報告をきく(ききたくないから耳がとじていたかも)よりも、がぜんやる気がマシマシになります。

僕が最近おもっているいい学校だなと思う学校のひとつは、学校を楽しんでいる生き生きしている大人がいるってこと。

なんだかんだいってもやっぱり、先生って仕事は大変なんだよね。でも、その大変さをなんとかお互い声かけ合って、工夫しながら、もっと働きやすく、もっと元気で、もっと楽しくすごせないといけない。

だって、大人がつまらない顔していたり、疲れていたり、体調崩したり、げっそりしていたら、やっぱり子どもたちもつまらなくなるしね。

今が、決して、つまらないわけじゃないけど、忙しすぎるのもよくない。もうちょっと、じっくりていねいな学校生活をおくりたいと思っている。それは大人も子どもも。

人生一度きり。楽しまなきゃソンソン。

こないだ、僕にトレーニングのてほどきをしてくれているマッチョさんから「いがちゃん、大人になると、どうしてああも楽しめなくなるものなのかね。みんな暗い顔してるでしょ。みてよ、オレなんか今年60になるけど、イガちゃんより元気じゃん!がはは」と白い歯をにかっとさせながら、話してくれました。その方は最近バイクを買って、改造して乗り回しています。今度、旅に出るそうです。

そうそう。そうなんよ。

僕はもっと大人が充実していて、元気で、やりたいことにあふれている子どものような世界になるといいと考えています。

僕がぜいたくだとおもうこと。それはバスケを続けること。その仲間と真剣に老若男女関係無く、プレイできることは実はとても貴重なことなのかもしれない。こういうかわった先生がいてもいいんじゃないかな。

みんなが人生、本気で楽しんでいること、ぜひ教えてください。

学習サークルLAFT再始動

いよいよ学習サークルLAFTが動き始めました。今回はLAFTを再開するにあたってのキックオフミーティング。通算116回目となるようです。今季は全5回でライティングワークショップ、リーディングワークショップを学びます。

コロナでの数年間、オンラインでしか会えなかった人ともこうやって同じ場に集まり話し合い、考え合うことはやはり大事だと思えました。画面ごしのコミュニケーションと異なり、面と向かい合ったノンバーバルなコミュニケーションでしか発生しない関わりの秘技みたいなものがあるように感じました。オンラインであれば一緒に学びたかった人たちのためにも、実践発表会やワークショップ研修など取り組みの様子を共有しながら進めていけるといいと考えています。

LAFTには、それぞれの思いやそれぞれの学びのベースをもつ多様な人たちが集まりました。もちろん10年来の仲間たちの顔ぶれもあり、大変嬉しいものです。メンバーの中から3人が名乗り上げてくれウォーミングアップのためのアクティビティからほっこりとスタート。僕からの提案「最近読んだおすすめ本」の交流は霞んでしまうほど。。。

程よく打ち解けてからお互いにこの場をどういう学びの場としていきたいかを、じっくりと語り合いました。5回目のLAFTでは「こうなっているといいな」と思うゴールも考えました。これらを共有しながら、自分が、そして、自分たちはそれぞれの学びに、学びのコミュニティに何ができるのか、貢献できるのかを考える時間をとりました。あっという間の三時間。

自分たちがどういう学びの場にしていきたいのかを話し合った時、メンバーの多くが「フィードバック」の難しさを感じているようでした。相手の文脈や物語を考えない一方的なフィードバック、いやフィードアタックをしてしまう恐ろしさが語れました。また、よく学んではいるけれども、やればやるほど本当にこれでいいのだろうかと言う不安がうまれ、フィードバックがほしくなることも語られました。

より良いパフォーマンスを高めていくためにはやはりフィードバックは欠かせないものです。もちろんそれは耳の痛いものもあるかもしれません。耳が痛いときはきっと、人格攻撃と受け取られてしまって入れ、その取り組みそのものへの改善へのアイディアとして届いていない。フィードバックは受け取ってもらってなんぼ。どのような形でフィードバック・プレゼントするのかは、今回のLAFT5回を通してその半年間のプロセスで私たちは磨き上げていくのだと思います。

人と会って話すことは、本当に楽しいものでした。新しい仲間が増え、若い人たちも増えました。落ち着いてくれば、参加したいけれども遠距離のめ参加できない人のためにも、オンライン参加は改めて考えていこうと思います。

こうやって学びの場が少しずつ活性化されはじめたこの春。一人ひとりが自分たちの場をつくっていく、そんな人たちが増えていってくれるといいなと考えています。

「今日は最高に楽しかったな〜」とひさしぶるに二次会をして帰りました。まだ何も学んでいないにもかかわらず!もう何か学んだ気になっている笑。人と会うというのはすごい自信を引き出してくるものなんですね。

カンファランスしやすい子とカンファランスしづらい子

週に1回ずつ続けてきた「一面展開図」も、いよいよゴールがみえてきました。子どもたちの中に作品を完成させた子がちらほらと出てきました。

ずらりと作品が並ぶにつれて、一人一人の作品の試行錯誤してきた物語には面白いものがあります。それと同じく、その作品の「出来」については、やはり様々あります。

もちろん僕は、この作品の「出来」は様々でいいと思っていますし、同じように整える必要もないと思っています。でも気になっていることがあります。

それは、この「出来」を左右するのに、カンファランスしやすい子とカンファランスしづらい子がいること。言いかえると「教師との協働を積極的な子」と「教師との協働に消極的な子」というのでしょうか。僕の中には、学ぶことは教師と子どもの協働作業と認識しているところが多分にあります。

僕は毎週の数学者の時間のエントリーでは、それぞれの取り組みが様々であるため、ミニ・レッスンが終わりそれぞれの活動に移ったときに、ぐるりと教室を一周して子どもたちそれぞれが何に取り組んでいるのか全体を軽くカンファランスします。

たいてい「教師との協働に積極的な子」は自分から話しかけてきてくれます。相談を持ちかけてくれます。だから、こちらも個別に相談にのることで作品をより良いものにしていけるアイディアを話し合えます。

一方で「教師との協働に消極的な子」は、それはそれで楽しそうに取り組んでいます。ゆるく友だちと談話しながら教師の手を借りずに「自分で」やろうとしています。僕は、こういう子はそれでいいと思っています。自分でやりたいので、僕からの介入は極力抑えつつ、でも「今日はこの子と少し話そう」と事前にカンファランスをする子を決めて、ある程度の平等性を持って関わっています。

僕がカンファランスしづらいなと思う子は、上記のような子ではありません。それよりももっと、サクサク自分で進め、あっさりと自分の限界を決めてしまう子です。そのため、作品もサクッと仕上がり、あっさりしたものになります。僕も話を聞きながら、いくつかアイディアを提案してみるのだけれど、あまり興味を示してもらえない。決して関係がわるいわけでもありません。

僕の中には作品作りの基準はもちろんあって、そこに「教師がつれて行く」ことはできるけれども、もうそういうことにはちょっと距離を置いてしまっています。以前の僕なら、カリスマ性!?を発揮して、ぐいぐい引っ張ることもありました。それはその子の経験にはなっても、その子の学びが駆動するってこととはちょっとあてはまらないように思うからです。

これまでみてきたカンファランスしづらい子の特徴には、自分への期待値を高くもてない傾向がある気がします。学びに対してくじかれるような経験をつんできてしまってきている。だからこそ、教師に対しても同じように期待をもてなくなっているのでは。同じように、自分自身にだってそうなのかもしれません。

学習をパフォーマンス課題で測ることは、そもそもよくないのではないか。その子の可能性って作品だけには現れないのかもしれないなと、思えるようになってきました。

じゃ、何でその子の成長をみとるのか。

人をみる、評価するって、もっとまるっとプロセス込みの全体的なものかもしれません。その作品だけでその子を理解することはできないってことが理解できたということです。だから、個人の能力の部分に特化した個別最適化は難しいんです。

僕との協働に興味がない子でも、まぁ、数学アート作品づくりには興味を持って楽しんで取り組んでくれているのがせめてもの救いです。

写真は、僕によく相談しにきてくれた子の作品。最初はドーナツの輪が小さすぎて、内側の壁を作れませんでした。輪を大きくすれば、その壁を作れるのでは!と、見事ドーナツを完成させていました。結果は、ドーナツ輪投げになりましたが。

学習サークルLAFTを再開 「グローバル・ティーチャー賞ナンシー・アトウェルのライティングワークショップ・リーディングワークショップ実践から学ぶ〜」

ずっと、何か、誰かの役に立ちたいと思っていました。昨年の夏に中野にあるポレポレ東中野で中村哲さんのドキュメンタリー劇場版「荒野に希望の灯をともす」を観てからというもの、ずっと世のため、人のため、自分ができること、何かできることを、アクションしていきたいと細々と思ってきました。

けれどもこれといって大それたことはできない。自分にとって「今、できる小さなこと」でいいからはじめてみようと考えました。

そうだ、学びの場をつくろう。もっと子どもたちが夢中になる授業づくりを考えてみよう。もっと先生という仕事のおもしろさを広げていこう。そして、先生たちと一緒に日本の教育を元気にしていこう。

そこで、これまでコロナ前まで細々と続けてきた学習サークルLAFT(Learning Association of Facilitative Teachers)を再開しようと決めました。

今回は半年をかけてじっくりとワークショップ授業を学びたい。そこでテーマを「ワークショップ授業を追求する〜グローバル・ティーチャー賞ナンシー・アトウェルのライティングワークショップ・リーディングワークショップ実践から学ぶ〜」と考えました。

今回のテーマ本は、ナンシー アトウェル著、小坂敦子・澤田英輔・吉田新一郎 編訳『イン・ザ・ミドル』(三省堂 2018)から学びます。

昨今、探究や個別最適といわれる中、学習コミュニティをベースに一人ひとりの興味関心を追求するのはワークショップ授業そのもの。しかし、ワークショップ授業を継続することやその質を高めることの難しさも知っています。それでも、僕は今後、このワークショップ授業で日本の教育を変えていく可能性も感じているし、広げていきたい。

今回のLAFTでは、本書の訳者、研究者でもある風越学園の澤田英輔さんをお呼びして、学ばせてもらう機会も進めています。僕はそれがとても楽しみで仕方がありません。

今回のLAFTは半年ぐらいをめどに、毎月第1土曜日午後に桐朋小学校にて12〜13名前後の少人数にて行います。希望があればオブザーバー参加枠もつくりたい。ゲストティーチャーを呼ぶとき以外は基本、無料としたいです。学びの場はみんなの声でつくっていく、民主的な場にしたい。だから、会を始めるまえにキックオフミーティングを開催して、どんな学びの場にしたいのか、参加者で話し合って決めていけるといいなと思っています。

改めてLAFTについて振り返ってみると、今回はじめるにあたってなんと、116回目になるようです。びっくり。ここに来るまで、100回記念の温泉慰安旅行もありました笑。ほんと楽しかったし。

学びの母体は、埼玉県で勤務していたときの「柏原分校」からはじまり、2012年1月12日よりLAFTという名前に変わりました。当時は、狭山市のメンバーや埼玉県や東京都の先生たちと学び会ってきました。

実践報告をし、よくしゃべり、よくしゃべってきました笑。3週ごとの水曜の夜、おにぎりを食べながら、アットホームでよかったな。辛いことや嫌なことがあれば、愚痴を聞いてもらえる場でもあり、LAFTのメンバーに支えてもらってきた感覚がいまでもあります。支えてもらっている感じがありました。いろんな人が口コミで職場の人をつれてきたりとわりと少人数ながらも継続してきました。

僕が桐朋小に勤務するようになってからは、埼玉は遠くなってしまいましたが(毎週末はバスケでいっているけど笑)、仙川に引っ越してきてからも学びの場を始めていました。5回にわたってジョン・ハッティの本から学び、実践化すること。僕はメンバーと一緒に取り組んだこの学びの場づくりがとても良かったと思います。芯となる本、その著作に関連する先生たちとも連絡を取り合えたことも良かったです。それは最後、コロナで断ち切れてしまいましたが。

コロナでずっと、会えずに画面越しの研修も続いてきました。もうそろそろいいかなとおもって、やっぱり同じ空気を吸いながら、身体を寄せ合って口角泡を飛ばしあいながら教育について語り合えるといい。

また、あの仲間たちと会いたい。けれども、時は更新され、みんなかわってしまっていっているし。だから、また新しい仲間たちと出会って、学びの場をつくっていこうと思いました。今週末にメンバーを公募しようと考えています。いろんな人がまじると面白いなと思っています。縁あって一緒に学び会える仲間を募る予定です。一緒に学び合いませんか。

男らしく? 女らしく? いいえ 自分らしく!

クラスの子が「イガせん、このHPみてみて」と紹介してくれました。

https://rebitlgbt.org/

のぞいてみると、LGBTQのこと。全ての子どもたちがありのままの自分で大人になれる社会を目指すNPO法人のものでした。

「この人たちをぜひ授業によんでほしいんだよね」と。最近、図書室で『みんなちがってみんなステキ』を読んだ様子。このことについてはクラスの中にも、課題意識をもって生活している子が増えているようです。

ちょうど2学期末に、多様性に関する保健の授業を実習生と共に授業を行いました。性は他人が決めることではなく、自分できめること。性を決めるのは、男女の二つではなく、人の数だけあること。「好きになる性」「心の性」「表現する性」「体の性」の4つがグラデーションでその人の数だけあります(それらの頭文字をとってSOGI)。決めるのは自分自身であって、大切にされなければなりません。

8時だよ!全員集合にも当時、ゲイを馬鹿にする笑いが普通にあったし、今、観るとそこに違和感をもてるようになってきました。アンケート用紙をみる度に「男・女」に分かれていることもそう。一番は、席替えを男女の数が整うようにしている自分に、何かいいようのない矛盾を感じています。3学期になってからは僕は「君」づけをしなくなり、できる限り「さん」づけとなりました。けど、まだつい「君」がでてしまうこともあるけれど。

多様性教育についてはわからないこともいっぱいあるし、もしかしたら気付かずに僕は誰かを差別しているかもしれない。一人ひとりのちがいがあって一緒に生きていること、みんなで生きることは同じはずなのに「みんな」がつくと、同調圧力になりやすい。みんなは誰かを指しているわけではないから。学校の中で「ふつう」と思うことが、いざ視野を広げてみれば「ふつう」じゃないこともたくさんある。

わからないことがたくさんあるけれど、相手を思いやり、一人ひとりを尊重する人権にたちかえってみれば、少しずつ前に進んで行けそうです。

ちなみに、日本のジェンダーギャップ指数(男女の違いで生じている格差や観念により生み出された不平等)は146か国中116位だそうです。むむ。

第3章にあたる実践者である星野さんの「第3限 包括的性教育について学ぼう」から、私たちの生活の中には意識していない差別あがることや、性の多様性がその人の生き方であることなど、たくさんのことを学ばせてもらいました。知的に理解するだけでなく、クラスの中で情的に理解する手立てが紹介されています。ぜひ手に取ってみてください。この授業実践は、子どもたちだけではなく、バイアスをつくっている私たち教員や保護者にとても大切なものです。

何かを身につけるために学んでいる?

数学者の時間では何を評価しているのか。今朝の数学者ミーティングでそうきかれて、テストの点でもないし、何かの能力を身につけることを目指している感じでもないし、ちょっと違和感があったので、考えてみることにしました。

数学者の時間を経験することは、問題解決サイクルの技術を身につけるため、数学的思考を身につけるため、なにか、○○力を身につけるためにやっているかというと、そうではなさそうです。これらのことは、数学者の時間をやってその結果ついてしまったオマケのようなもののような気がしてきました。

そもそも何かを身につけるために学ぶという前提、その考え方がちょっとちがっているのかもしれません。

3学期に入って、子どもたちとは毎週金曜日、数学者の時間でひたすら紙と鉛筆で良問を解いてつくる時間を過ごしてきました。そこでは、問題解決力、数学的思考力、そして、コミュ力など、何かを身につけるためにやっていないなぁと思います。もちろん問題解決サイクルは身につけてほしいことなのですが。そのためだけにやっている訳じゃなさそう。

では、何を目的とし、評価し、何を見取っているのか。僕は、子どもたちが本気になったり、夢中になっているかどうか。じゃないかなぁ。真面目にタスクをこなしているとか、与えられた課題を忠実に消化しているとか、そういう姿をあまり期待していないようです。もちろん、基本的にはそういうことは大切にして欲しいとは思っているけれど、教育の真ん中はそれじゃないと思う。

この間の金曜日のこと。ある問題を解いていて、本気でくやしがっている子どもたちがいました。それは、本気でまちがえたこと。真剣に考えたその答えがまちがっている。人はそういうときに「絶対、解いてやる!」「自分の何がおかしいのか!?」何、本気のスイッチが入るようです。

僕は、ニコニコしながら「頭の目隠しを外してご覧よ」というだけ。一気に知恵を集結し、夢中になって考え合う、力強いすがたが生まれました。こういう場面に出くわす度に、学びのありたい姿が見られた気がして、とても嬉しくなります。いつも、この通りに上手くはいかないけれど、教員経験と共に割り切れることが増え、こういう時間がうまれることが増えてきたなと思います。まぁ、いろんなものを手放しているっていることなのでしょうか。

数学者の時間で評価しているもの、みているもの。

それは、子どもたちが夢中になって算数・数学しているか楽しんでいるか、その姿がまずは一番大切にしているなと気がつきました。目標→活動→評価といった直線的な学びでは捉えきれない子どもの姿があります。それこそ、探究→活動→表現といった右往左往しながら考える子どもたちをまるっと理解しようとできるはずです。

ちなみに、子どもたちが本気でスタックした問題は、1000年ほど古来より解かれ続けてきた論理問題。それをもとに2018年に生まれた問題です。僕も最初、同じようにひっかかりました。考えるっておもしろいですね。紙と鉛筆だけで学びは駆動しています。

この問題、ひっかかりませんか?

参照本