学校には、学力から解放される学びがもっとあってもよいのではないだろうか。
この意味で昨日の学習サークルLAFTでは、とても革新的な「数学者の時間」の提案がなされたと思う。
これまで10年間!一緒に研究してきたガモちゃんからの「数学者の時間」の実践発表から昨日の学習会はスタートした。報告を終えて、参加者から質問があった。
「数学者の時間は、普段の算数授業にどのようにいかされているのか」
ガモちゃんからは「その影響はまだよくわからない。けど1年間続けてみると、思考体力がついていると思う」という素朴な返答があった。
このやりとりを聞いていて、僕はそもそも「日常につながるための何かの能力や、学力を高めるために「数学者の時間」をやっていないのではないだろうか」という気づきがあった。
もちろん、子どもたちには考える力をつけてほしいし、普段の算数授業においても十分いかされてほしいとはおもっている。しかし、本当にその何かを身につける為に算数数学と同じような教科の延長として「数学者の時間」を捉えていいのだろうか。
一緒に考え合う中で、1人では、なしえなかった考える楽しさを味わい、数学的体験に没頭し、問題ができようができまいが夢中になれる時間を、僕は数学者の時間として定期的に確保しているんじゃないだろうか。もしそうなら、学力を高めるために数学者の時間を設定していないかもしれない。
じゃぁ、その学力ってそもそもなんなのだろう?
これについて参加者と3つのグループに分かれて話し合いを深めていった。どのグループもいずれもこの学力というものの「一側面でしかない」ことが批判的に語られたと思う。ならば、学校教育はこの数値的で一面的にしか捉えられない学力を本当に推進していっていいのだろうか。
もちろん社会でいきていくため身に付けるといった能力はとても大事なこと。ここで大きな課題は、この能力は本来多様であるはずのものなのに、測りやすいものに限定され、数値に還元され、受験のような今後の将来を規定されてしまう、狭いものの見方の「学力」ということだ。
ガモちゃんよる「数学者の時間」の実践発表は、子どもたちがその時間を考えることを楽しんでいた。そしてよく話し合っていた。興味のある事へ川の速さを測ろうと1人でやっている子もいた。そしてその個別の課題にも教師として形成的にカンファランスがなされていた。
学校の中のものは、何事においても評価がとつきまうことが多い。ほんとにそれで良いのだろうか? 評価から解放されて、その時にそのもっているもので、純粋に楽しむことや考えることへ没頭するような時間があって良いのではないだろうか。これは休み時間のみ許されることなのだろうか。
クラブ活動はどうだろう。これには何か数値的な評価はされな。そして子どもたちはクラブをとても楽しみにしている。なんならクラブのために学校に来ている!といいそうな子が目に浮かぶ。
学習会では、ケンケンから実際に「数学者の時間」を体験してみたいと言う提案があり、ブッククラブを急遽変更し、問題を解きあう「数学者の時間」の入り口を設定して以下の問題をみんなで解くことにした。

算数数学重症患者だった人からは、「考える楽しさ体験できた」と感想があった。1人で読んで解こうとしてもわからなかった問題を、隣に誰かがいてくれることで諦めずに進められた経験ができた。また、一方でひとりで考えたい人もいることも語られた。
僕は数学者の時間で、現行のがんじがらめの能力を高めるための学習や何かを身につけるための「できる/できない算数数学」を、相対的に価値を薄めてくれる効果を期待しているのかもしれない。
僕は何かを学力として身に付けて人より高いものに高みにいくために能力磨きに推進するのならば、必ずそこには能力の高い低いという格差が生まれてしまう。学級という固定化された関係性においてはこれが顕著となってしまう。本当はもっと多面的で多様な側面が人にはあるにもかかわらず。
人にはもっと評価されるべき側面があるはずだ。数学者の時間の中でおこっていることは、人に寄り添ったり、一緒に考えたりする親切だったりもする。そういう苦手なことをも含みこんで一緒に生活していく小さな社会が生まれたりもする。こういった哲学が「数学者の時間」の中には埋め込まれているのではないだろうかと考えた。
この辺のことについては、今後も引き続きいろんな人とももっと対話をしながら考えていきたいなぁ。