学級づくり

記録しないなんてもったいない!

数学的思考の本質は、特殊化と一般化を繰り返すそのプロセスにあると書いた。そして、その数学的思考を支えるための強力なツールが「記録する」こと。つまりノートをとることだ。

この記録することとは、板書をうつすことではない。なぜなら、ただ写すだけでは、そこにはその人の思考が働きがみてとれないからだ。

ここでいう記録することとは、「自分の考えに気付いて、それを言葉で表現すること(P.29)」である。

自分の思考をちくいちライブでメモすることはとても面倒くさいことである。そして、後になって思い出して書き出してもなんら意味は生じない。この面倒くさくともライブで記録することに向き合うことで、計り知れないほどの価値がうまれてくるのが「記録する」ことだ。

問題解決をしていると必ずおとずれる「うーん、できない!」状態がやってくる。この手詰まりになったときに、次に何をしたらいいのかを教えてくれるのが、記録である。

頭の中にあるだけでは多角的・多面的にに検討することは不可能なのである。これは書き出すことではじめて検証可能となる。

記録を見直すことで、自分の頭の中に入り込み、はっきり言葉として記録することが、自分の過ちや欠点に気付かせてくれ、修正すべき点に気付かせてくれる。

自分の手詰まりを直したとき、問題への感情がかわっていることがある。以前は手に負えないと思っていたことが、なんだかできそうな気持ちになる。記録することのがまん強さや忍耐は、あとになって大きな見返りを提供してくれる。やらない手はないはずだ。

「うーん、できない」の手詰まりから脱出する一歩は、素直に「自分の手詰まりを認めること。これができると何よりも力になる。

また、記録することを継続すると、これまでの自分の問題解決経験リストから、類似している解決方法を引っ張り出せる効果も生まれる。アイディアがひらめきやすくなるのだ。ノートに自分の考えを書く練習をしていかないことなんかありえない!

では、具体的にノートには何を記録するのだろうか。

①ひらめいたすべてのアイディア

②やってみようとしたこと

③途中で感じたこと

ぜひ、次の問題を記録することを意識して解いてみてほしい。記録をすることで、前回紹介した、一般化から予想がたちあがる経験ができる良問である。

【問題 パッチワーク】P.22

やってみるとわかることだが、記録はなかなかつらい。「まちがっていないか?」「とくことができないのでは?」など、常に不安を向き合うこととなる。勇気を持って書き始めることがなによりのコツなんだと思う。

そして、記録することに向き合うには、自分自身の感情を見つめなければならない。でもこれこそが数学的思考がつめたい論理ではなく、情熱的なものだという証。

つづく。

のんびりいこうぜ

寝る前に本を読んでいる。秋夜のお供はカヌーイスト野田知佑だ。

学生時代から細々と読みながら、そのバンカラさとナチュラリストとしての穏やかな視点が好きだった。

時代や社会にしばられず、自由であること。そして、遊ぶことを追求しつづけた僕にとってはあこがれの大人だ。

野田さん追悼のメモリアルブックを偶然、手に取った。寝る前にパラパラめくると、川下りの写真とあわせて、野田さんの文体がしみわたってくる。

あぁ、こんな旅、やりたいなぁ。

自由で、遊ぶこと、大事にできる大人になりたいなぁ。

本を読んでいると、日々のあわただしさから解放されて、のんびりいこうぜ、そんな気持ちになれる。

あの何物でもなかったころの学生時代の自分にもどったちょっとせつない気持ちにもなれる。

本を読みながら、寝る前に世界の川、日本の古きよき川を旅している。もちろんそこにはカヌー犬ガクもいっしょ。

気がつくとうっかり本を落としてそのまま寝に入ってしまう。とても至福の時間。

野田さんと再会して、ほんとうに自由で、本気で遊ぶ、そんな時間をすごしたいと思った。

ファルトボートほしいぞ〜!

来週訪れる瀬戸内の海

「準備教育ではなく、今を生きる教育こそが大切です」中野光

いつも迷っていたり、これでいいのかなと、自問自答している。たぶん、この先もずっとこれが続くし、退職するそのときだってもっとやれたことがあったはずと思っているだろう。教育ってそういう仕事なんだと思う。

迷ったときに立ち返るところがあるといい。それが建学の精神。本校には本学が創られた際の願いが脈々と残っている。

今年、亡くなられた中野光先生は、桐朋初等部の創設期に4年間教員をしていた。ジョン・デューイの発想から桐朋の構想をねりあげた方だ。

中野先生は、桐朋から金沢大学、和光大学、立教大学などの教員の傍ら、日本生活教育連盟委員長・顧問、日本子どもを守る会会長、日本教師教育学会会長、日本学術会議などさまざまな活躍をなされた方。

「私学としての桐朋はいわゆる『研究学校』(ラボラトリー・スクール)として発展していくほかないのではないか」「子どもが構成し、創造し、そして能動的に探究するための作業所・実験室・材料・道具、そういうことに必要な空間」 

『初等部誕生物語』より

これってまさに実験校だ。それもそのはず、1950年初頭、中野先生はドイツの教育から学んできたからだ。

伝統的な学校カリキュラムや画一化された教育を変えることを大切に初等部を創ってきた。

だから周りの先生からは「桐朋の先生は自由だ」といわれるゆえんなんだと思う。しかしそれについて回るのはその質。だから悩ましい。

「準備教育ではなく、今を生きる教育こそが大切です」

『生活教育2023/10・11』P.29より

https://www.fujisan.co.jp/product/1457/

中野先生は「教育の『質』を研究的に問いつづけるほかに発展の道はない」と言う。ルソーの『エミール』に書かれた「子ども時代は再びめぐってはこない。あてにならない将来のために、人々はなぜ、二度とめぐり来ることのないいまを犠牲になるのか」を引用し、その質に向き合うため、「いま」を大事にする教育をうったえた。

「私のやっている教育は果たしてこれでいいのだろうか」

「もうすこしましにならないものだろうか」

これをみんなで問い直すことができる学校であるのが本校だと。そして今、そういう学校でもある。

今の教育目標

・子どもを原点とした教育の実現

・社会の主人公となりゆくための根っこを育てること

これに立ち返り、その質、取り組みから、子どもたちの学び方とその意欲を高めていきたい。うまくいかないことも多々あるけれど。長い職員会議が終わってそう思う。

本校の校長は毎回の職員会議で、自分の思いや願いをA3用紙に2〜3枚くばってくれる。そこには地球環境のこと、教育実践のすばらしいこと、そこに今回、中野先生のことが記されていた。ステキでしょ。

解いて終わりの算数・数学では、おしい授業。そこからはじまる

数学的思考について考えている。

数学的思考の核となる考えに「特殊化」と「一般化」がある。「特殊化」とは、具体的な一例として手軽にできることから試してみることだ。「一般化」とはそこに共通するパターンを見抜いて、他の例においても運用できるきまりをみつけることである。この二つの取り組みを相互に駆動させることで、問題を解決させることにとどまらず、その問題がもっている数学的な特徴を明らかにしていくことができる。

2023.10.01のブログより引用

数学的思考は特殊化からはじまる 

http://igasen.xsrv.jp/wp/2023/10/01/数学的思考は特殊化からはじまる%E3%80%80/

この説明は大切なので繰り返し引用。

問題解決の途中、1つ、2つ、そして3つの事例をならべてみると、なにか共通している「パターン」がひらめいてくる。1つ、2つ、そして3つと具体的に特殊化された事例には、パターンに気付かせる一般化を助けてくれる力がある。この気づきは算数・数学をやっている魅力の一つだ。

しかし、ここで数学することはおわらない。「そのパターンは他の全ての事例にも本当にあてはまるのだろうか」「もしかしたら、このケースでは?」と予想を可能とし、さらなる特殊化によって、みつけたやわやわのパターンから、その正当性を確かめていくことだ。

この問題に挑戦してみてほしい。いくつかの事例を確かめる(特殊化)ことから、パターンがひらめき(一般化)、それが本当に正しいのか確かめたくなる(特殊化)良問だ。

チェスボードは8×8の64マスの正方形ボード

『教科書では学べない数学的思考』P.34より

めんどくさがらずペンと紙さえあれば、この数学的好奇心を経験できてしまうのが数学することのよさ。そのチャンスを見逃さないで!

「答えがあってた。あってた」といった算数・数学では答えさえ求められればそれでよいと考えがちだ。しかし結果さえわかればよいというのは、まだ数学していないということだ。

「結果は分かったけれども、これってなにか共通するきまりやパターンがあるのかな」解いてみた問題から「どうしてそうなるのかな」「本当にこれっていえることなのかな?」といった理由や好奇心が持てるようにすることが数学する出発点である。

自分自身の解答プロセスと納得感を疑うことをできるのは、最後は自分自身しかいない。この自分を納得させられるか、自分との勝負がまたおもしろい。

パターンがみえてきたらその一般化は「予想」に変化していく。そして、その予想の「何が正しいのか」を判断するために、もっと特殊化して「なぜ正しいといえるのか」よく調べることになる。この過程こそが数学的思考の本質である。

数学するとは、問題を解いておわりじゃないということ。ここが出発点であり、その問題の特徴をとらえて一般化に確信をもつこと。

この点から普段の算数・数学の授業をふりかえってみると、はたして数学しているのだろうか。だいじなことを「教えて・答える」みたいな作業数学になってしまっていないだろうか。

それにはあのテキストの練習量は多すぎるからそうなってしまうのだろう。リッチな良問をじっくりと数値を変えていじりたおす数学経験を取り入れているのが数学者の時間。こういう時間をバランスしていかないと、数学する経験に触れる前に算数・数学ぎらいになってしまうだろう。

一般化を技術的に行うためには

・系統立てた特殊化(順番にためす)、

・部分的にのみ正しいパターンをみつけ、

・その他にも多様なケースで試してみることで、自信をもつこと。

次は、この特殊化と一般化をはたらかすための記録について考えていきたい。

B.LEAGUE開幕2連敗のサンロッカーズ渋谷がチームになるために

今日はスポーツの日。ちょうど一月前の日本中を沸かしたバスケットボール熱。いよいよその国内リーグB.LEAGUEがこの週末にスタートした。

僕はここ4シーズン継続してサンロッカーズ渋谷を応援してきた。週末となればせっせと青山学院のホームコートに通い、アウェイ戦となれば、宇都宮、名古屋、広島など行ける限り、アウェイ戦にも観戦へ行った。

このオフシーズンには、日本代表戦をわかしたジョシュ・ホーキンソンを日本国籍選手として獲得し、元日本代表の田中大貴、アキ・チェンバース、永吉佑也など大型補強が成功した。

今シーズンは開幕戦から連戦が期待され、先の天皇杯においてもその試合運びの堅実性もみられ、リーグ優勝に一番近いチームと言われている。

にもかかわらず、開幕戦2連敗。これは一体なんだったのか。

ゲーム内容には、かなりの約束事が徹底されていることが見て取れた。それもそのはず。今季は、リーグ優勝2度を誇る新ヘッドコーチにルカ・パヴィチェヴィッチ監督が指揮を執ることとなった新シーズン(まだ彼の名前は空では言えない)。

昨シーズンは思いもよらず監督のむーさんが途中で解任という大激動の中、年間の勝率が5割を切り、河村くん率いる横浜さんにCS(チャンピオンシップ:上位8チームによるトーナメント戦)を譲ることとなった。やはり監督、優秀なリーダーがいないとチームとしてまとまりきれなかった。

この開幕に連敗の敗因はなんだったんだろう。

渋谷にはキャプテンのベントラメ礼生に加え、元NBA選手でエースのライアン・ケリーやジェームズ・マイケル・マカドゥがいるにもかかわらずだ。マカドゥに関してはNBAのチャンピオンリングをウォーリアーズ時代に2つも持っている。

新チームとしてサンロッカーズ渋谷が始動してからは、チーム内の規律や細かい約束事、一歩にこだわったフロアスペースにも注文がつくらしい。さすがプロだ。平日練習はこれまで1日1回だったものが、今シーズンは午前と午後の二部練に分けられるなど、徹底した改革ぶりだ。選手はみんなルカに認められたいという憧れを抱いている。

ここなんだと思う。僕はこの「○○に認められるために」ってなにか違和感がある。

監督に認められたい。まだそのチームと監督との安心既知をつくっている最中なのだと予想している。強いチームとは良いメンバーの集まりでは決してない。

そのためにまだ個々のメンバーは、チームになりきれておらず、その途上にいる。実際、昨年度優勝した琉球さん、勝率ナンバー1の千葉さんには個の力以上にチームの力を感じたし、年間通してチームに育っていった。

チームを率いるリーダーがカリスマ的すぎたり力がありすぎると、これはなかなかうまくいかないことがある。しかし良いリーダーがいないとまとまらないのも確かである。

サンロッカーズ渋谷はまだ、チームになりきれていない。チームづくりの段階としては、まだ入り口だ。でもこれでいいと思う。ここから始まる。

だから、もっと話すといいと思った。チーム内の対話が必要となってくる。今の自分と求められる自分のすり合わせ、もっと衝突したり、わかり合う。そして求められるチームと今のチームのそのギャップをどう埋めるのか、もっともっと話し合っていく必要がある。きっとこの辺をやっているところなのだろう。

だから僕はサンロッカーズ渋谷の1ファンとして、大丈夫と思って、変わらず応援し続けたい。そして今年は優勝を期待している。

今なら、Bリーグは無料で11月までは観戦できる。年間支払っても5000円程度だ。国内、海外遠征のバスケがいくらでもみられる(もちろん例外もあるが)ので、安いくらいでもっと払いたいくらいだ。そして、今年も大変お世話になる貴重なアプリだ。この機会にぜひ登録を!

https://basketball.mb.softbank.jp

昨シーズンの代々木代に体育館でのホーム戦。このオープニングが大スキ。

運動会がサッパリと終わった

ここに来るまでいろんなことがあったが、無事に運動会が終わってほっとひと安心。

子どもたちとは運動会の終了後、学年の子どもたちみんなでノーサイドパーティーとしてジュースで乾杯をした。子どもたちは和気あいあいとお互いの検討称えあった。こういうときのジュースの準備や、コップの準備や、おやつの準備は驚くほど紅白を越えて素早く的確だった。笑

学年競技「シン・ハタシッポトリ」もお互い競り合うような場面もあって、白熱した。実行委員の子どもたちが当初願っていたものとは違っていたけど、ていねいな話し合いを積み重ねてきた苦労も運動会で報告できた。

学年で一緒に練り上げていたものが形となってみんなで満足できた様子だった。

応援団の子どもたちは感極まるとか、感動して涙をするようなことはなく、さっぱりとしていた6年生だった。僕は案外、こういうのが自然でいいなぁと思った。

なんだか当日までにとてもプレッシャーがあったり、やるべきことが多かったり。そういうものかはの開放感から涙するとか。今回の取り組みからはそういうのはあまりなかったことだったんだと思う。そしてそういう働きかけができていたんだと思う。

自分たちがやりたいようにやる。

感動というよりも満足感。

やりたいこと話し合ってやり切った。

けど負けちゃったね

ニコニコしていた。

次は5年生のあなたたちだからね。

うれしそうに引き継ぎをしていたのもなんかよかった。

いよいよ次は修学旅行。そして個人面談。そして進学の事、そして音楽会、まだまだ目白押しだ。

今できることを少しずつ続けてまた子どもたちと一緒に取り組みのプロセスを大事にしていきたいと思っている。そして何を目指すかも大事にしたいと思っている。

まずは本当に子どもたち、そして陰ながら関わってくださったみなさん本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。

運動会からこの指止まれスポーツフェスティバルへ

いよいよ明日、運動会。子どもたちと熱のこもった練習を続けている。

今日、学年の先生と買い出しにいったときの会話でそのとおりだなと思うことがあった。

「これまで仲良くやってきたのに、どうして急に赤と白で戦うの?」

子どもたちとは5年生の頃からずっと協同とか、多様性とか大事にしてきた。競い合うことよりどんなことでも認め合い支えてきたはずだった。

なのに運動会となると、なぜいきなり赤と白に分かれて急に競い合うことをするのだろうか。これは子どもたちにとっては、まったく文脈のないことだ。

子どもたちと考えてきた学年競技「シン・ハタシッポトリ」では、勝っても負けても楽しかったはずなのに、運動会が迫ってくるにつれて勝ち負けがつくといきなり熱くなりすぎる場面もあった。

応援団の練習では「絶対勝つ!」なんて普段の言葉からは絶対絶対でないような言葉を叫んでいる。

ずっと違和感をもっていたのは、このことだったのか。

運動会ではなく、民舞発表会+この指止まれスポーツフェイスティバルにすればいい。種目も、子どもたちが考えた種目を1年から6年まで募って自由参加できるような競技にするといい。大人だってそこに参加したっていい。赤が勝つとか白が勝つとか越えて、もっと全員で楽しめるといい。

僕はやっぱりパン食い競争とかやりたいな。パンはやっぱりあんパンね笑。子どもたちと考えた「生卵をはこべ!(オタマに卵を落とさないようにリレーする笑えるゆるスポ)」とか、あと世代別3種目競技(走る、跳ぶ、投げるなど)にも参加してみたい。

人気のない種目は少人数だっていい。そういう希少価値に目を向けて「自分がやらねばだれがやるのか」という勝手な気概をもって参加する人がもっと増えるといい。楽しい様子は、必ず広がるし、周りを巻き込む力があるからだ。

どうやって人とつながって、いっしょに生きていくのか、そういう視点でもう一度、運動会をみなおしてみる機会があるといい。

とはいうものの、明日は運動会。これまでがんばってきた全てを出し切って、気持ちよく、楽しめるといいな。

尊敬する相談室のボスからもらったロジャーズの言葉「あるがままにいきる」ってこと。

健康的で甘いものといえば・・・

夏頃から、毎朝、あるものを食べている。

日本古来から続く、伝統食のひとつであり、それを食すと腸内環境を整え、肝機能の回復をもたらし、生活習慣病にも効果があるとされる。また、ビタミンB1や鉄分も多く、疲労回復に貧血予防、美肌効果もあるとか。タンパク質もしっかりとれるのがなによりも嬉しい。

それが「アンコ」だ。

アンコとは何者なのか。日本あんこ協会によれば、 弥生時代より、日本では無病息災や魔除けを祈願する行事に小豆を使った料理が食べられていたそうだ。あんこの原型が伝わったとされるのは、飛鳥時代といわれている。当初は塩でにつめた塩あんが主流であり、甘いあんこが庶民の口に入るようになったのは江戸時代である。

最近購入したホットクックのレシピにはアンコもある。小豆を買ってきて、水の量を調整し、ゆであがり途中で砂糖を投入。味をみながら塩を少々。塩を先に入れると浸透圧の原理から砂糖が小豆にしみこまない失敗もした。

市販のアンコは甘すぎたり、添加物も気になる。素材そのものの味を楽しみたい。それには手づくりが一番。そしてこの手抜き料理をささえてくれるのがホットクックだ。なにより家でつくると香りがたってとてもいい。

僕は毎朝、きまった朝食を食べている。ここ数年はオートミールにきな粉、サツマイモ。オートミールは牛乳でもどして「麹だけでつくったあまさけ(これが最近おきにいり)」を少々。これで自然の甘みが活きてうまい。それにフルーツとヨーグルト。これにアンコが加わった。きっと毎朝、食べ続けるとまたその効果もちがうかもしれない。

そのうち町を歩いていたら、今月の「町でみつけた美肌少年」にスカウトされるかもしれない。ないかもしれない。

しかしなんで今頃アンコなんだろう。もっとおしゃれなものもありそうなのに。だんだん子どもの頃に食べたものが懐かしく感じるのかもしれない。昔、烏森神社の近くにあったアンコ工場から直接もらってきたことを思い出す。僕にとってはなつかしい味なのかもしれない。

和菓子や日本の食材に目を向けて、いろいろためしながら作ってみようと思う。そしてコロナがおちついてきたから、また教室でじっくりと小豆を煮ながらアンコをつくって、白玉団子でもいっしょに食べたい。

今日の放課後、子どもたちと話していたら「僕はお菓子の中でもアンコが一番すきです」という子がいた。意気投合してしまったので、ついアンコのこと書きたくなった。

運動会の主役は「子どもが」から「子どもと」いっしょにへ

今日は運動会予行。

昭和気質の学校なため、こういう時間はまだ大切にしている。僕は結構気に入っていて、運動会当日は各自の仕事で忙しい子どもたちだから、この日ばかりはじっくりと他の学年の民舞をみることができる。

本校の民舞は1年が荒馬、2年が花笠、3年が御神楽、4年がソーラン、5年がエイサー、6年が中野七頭舞だ。どれも古くからずっと研究しつづけてきている伝統の踊り。

子どもたちはさすが6年生だけあって、1年生が踊っていると自分たちも一緒に応援席で荒馬を踊れてしまう。それが5年生のエイサーまで続くのがこのここちよい。

「本物に触れることを大事にしている」学校とは知っていたが、一番驚いたことに、練習に沖縄からエイサーの保存会の人を呼んで練習し、本番はその人達の演奏で、子どもたちが踊ることだ。もうライブじゃん。

昨日は七頭舞の「レジェンド(保存会の人たちのことをみんなそうよぶ)」を呼んでそれぞれのグループ踊りを練習もした。

おどろくことなかれ。僕が一番驚いたのは、この踊りを一緒に先生たちも踊れることだ。指導するんだから当たり前といえばそうなのだが、練習ではなく、本番の運動会でおどってしまうのだ。

これまでの経験では、子どもの見本として朝礼台に教師が立って踊っているのもみたことがある。僕は運動会当日なんだから、子どもたちにすべてをまかせればいいのになぁと思っていた。

でも今の学校はちがう。先生は子どもたちの列に一緒に入って、一緒に踊ってしまう。「先生が目立つじゃん!これってどうなの!?」と思うかもしれない。実際に、職員会議でもいくらなんでもやりすぎだと議論されたこともあるようだ。

でも、僕はそれでいいとおもう。「子どもが」つくるというよりも、「子どもと」一緒につくって楽しんでいる様子がとても伝わってくるからだ。

今日も、学年の先生がいないなとおもっていたら、ちゃっかり浴衣と袴を着けて子どもたちにまぎれて七頭舞を踊っていた。お見事。

僕はというと、踊りはからっきしダメで動きがぎこちない。踊らせようとするならば、盗んだバイクで走り出したくなる。だから大人しく横からこっそり見学してみていよう。なんてことはゆるされない。

七頭舞はチャッパ(和楽器の鐘)を任された。また、おかげさまで御神楽の太鼓もたたけるようになり神様に奉納したくなる。そのための練習も欠かせない。この学校に来てからは楽器のレパートリーが増えている。そのうち、三線もひけるようになるかもしれない。

子どもが主役だけど、その主役を輝かせるためにいつも一緒になってつくってきた先生もそのステージに参加しちゃう。これいいなとおもう。

先生はなんでもやるのだ。

ふつうの暮らしをしていたらなかなか出会えない文化にたくさん出会えるのがこの運動会。密度の濃い時間をすごしている。

時間にケチな先生にはなりたくないな

ここ数日、帰宅が20時をすぎていることが多い。それもそうだ。運動会と修学旅行がどちらも大詰めだから。それにいくつかの家庭に連絡をすることもあった。

僕はこれまで比較的、時間になるとちゃんと退勤するようにしてきたが、20代の頃はそれこそ22時、23時と普通に授業の準備をしていた。それが楽しかった。SECOMから毎晩22時になると、戸締まりの電話がきていて、声なじみにもなっていたのはなつかしい思い出だ。

いつからか限られた時間の中できちんと仕事をやりきることを考えるようになってきた。すると仕事の効率をいかにあげるかにやっきになっていった。帰宅ははやくなっていったが、それと同時に時間にケチになっていった。

ムダなおしゃべりや繰り返される会議。効率的にすすまないことには極力さけようとしてしまう。

でも、教育ってそうじゃない。子どもは時間をたべて大きくなるといわれている。生産性の最も低いのが教育だ。どれだけ準備して、かかわったとしても成果として見えることは少ないし結果はすぐにでない。

でも終業式をむかえて、子どもからの一言や手紙に心打たれるし、「もっとしてあげらえることがあったのでは」と毎年、思ってしまう魅力もある。

働き方改革とい言われている時代だからこそ、大事な何かを失わないようにしたい。

学年の先生たちとああでもない、こうでもないと一緒に行事をつくっていけるのは実は楽しいものだ。そしてその裁量が自分たちにあることも大事だ。そのために帰宅がおそくなったとしても納得できるところもある。

やらされ仕事はだれもやりたくないけれど、自分にとって意味のあることはタイパとか生産性をこえて、時間をリッチに費やしたい。そう思える仕事ってステキじゃない?

僕は、いい職場と同僚に恵まれたと思う。先生ってすてきだと思っている。