通信をつくりなおした

毎週金曜日に学級通信を配っています。

だいたい金曜日になる前には、すでにできあがっているのだけれど、今回はどうしてもつくりなおしたくなってリライトした。

今週、被爆2世の方からヒロシマの話を子どもたちといっしょにきいた。その中の感想に「知ることからはじめる」ってまさにこういうことなんだろうな、と気付かされた。

“私はあまりくわしく原爆について知りませんでした。でも今日、いろんな広島の話や画像などを観て少し怖くなった。と同時に「もっと知りたい」と思いました。知ることは怖いけど、知らない方がもっと怖いと思ったからです。ちゃんと学習してもし、次にもう一度同じことが起きないように反対の声をあげないといけないと思い、知りたいと思うようになりました。”

そして、核兵器をなくし、平和に向けてどうやって解決していけばいいのかアイディアまでもっている子もいた。

“憎しみから平和は生まれてこない。弟を救えなかった人の子が辛い感情を生じさせた。今も戦争は世界中で絶えない。どうやったら学んだことを生かせるのだろう。暴力のない話し合いで解決できないのか。政治の人たちは話し合いという解決策を知らないのか。世界中の人を平和にしたい。”

知ることからはじまるし、話し合うことからはじまる。子どもたちといっしょに学んでいきたい。

そして、今週は来日しているウクライナ絵本作家のお二人から直接、現地の子どもたちの生活を教えてもらう。

今朝、電車にハトが入ってきたんだって。平和なハプニング。

運動会にも民主主義って、ほんとにたいへんだ

運動会に向けて、学年競技について子どもたちと話し合っている。毎年「旗取り」という棒倒しの棒のてっぺんに旗が刺さっていて、相手の旗を先にとったほうが勝ちという競技。

両クラスから選ばれた実行委員子どもたちとは、昨年度のDVDを観ながら、今年の学年競技案を考え合った。

「背の高い人、体格がいい人が有利だ。運動ができない人が楽しめない」「観客で観ていても、勝ち負けが分からなかった」「怪我が多そう」と感想をいう。そこで、学年競技のめあてをきめた。

・勝っても、負けても楽しい。やってみたくなる。(楽しい)

・観ている人もわかりやすい。(ルールが簡単)

・怪我ができるだけない。(安全)

このあたりを考えると、歴代続く「旗取り」を「変えたい!」「俺たちが歴史を変える!」と意気込んでいる。

とてもいいめあてだと思う。勝ち負けに偏りすぎず、楽しく、一生懸命取り組めるものを探したいと思った。笑いのツボとセンスのあう同僚の先生から借りた『マイノリティデザイン』という、ゆるスポ(ハンドソープボール、バブルサッカー、ハットラグビーなどどれも笑ってだれもが楽しめるスポーツばかり)について学んだりもした。

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この本、ほんといい。運動が得意な人だけのものではなく、もっと身近に楽しいものだと思わせてくれる。

実行委員なりにも新しい案がふたつほどできあがった。PAでやるような「シーツでボールをはねあがらせるゲーム」と「おたまで水はこびゲーム」だ。なんとも旗取りにとってかわるにふさわしすぎる脱力競技。僕はいいなと思う。

けれども、これまで歴代継続してきた「旗取り」について各クラスでアンケートをとってみると

「毎年やっていたから、楽しそうだし僕らも旗取りやりたい」

「ルールや役割を工夫すれば旗取りだってみんな楽しめる」

「接触がなければ安全になる」など、

最もらしい意見に打ちのめされて帰ってきた。意見を吸い上げることは大切なことだが、多くの声を引き取ることは大変だ。

そこで急遽、実行委員で1時間話し合い。もらったそれぞれの意見を反映した「シン・旗取り」競技をそれぞれのクラスで実行委員が提案することになった。

こういうやりとりを何度もしていると、なかなか進まない。休み時間もなくなっていく涙。でも、それぞれが納得いくために、声をきく。声をあげる。こういうことが運動会づくりで大切にされ、民主主義を学んでいけるこの学校のいいところだ。

今は産みの苦しみ。なかなかしんどい。さて、明日が競技ルールのしめきり、どうなるかな。

孟子から仁義を学ぶ

中村哲ドキュメンタリー映画「荒野に希望の灯をともす」を観たことをきっかけに、中国の孟子に興味をもった。

中村哲さんはアフガニスタンで水路を築くその難しさの中、きっと孟子の「性善説」に惹かれたに違いない。人の本性は善であるにもかかわらず悪事へと走らせてしまうのは、その人が生きている環境によってその本性が汚れてしまっているからだと。教師としても、なんだか勇気をもらえる。

僕にとっては高校の漢文程度しか知らなかったが調べてみるとなかなかおもしろい。「ためにならない君主、YOUとりかえちゃえば!」と、当時(といっても2500年の前の中国において)はかなりの革命的思想の持ち主だったらしい。そもそも農民に君主をとりかえる発想はないし。ジャニーズしかり。

それだけに、孟子の愛読者には、徳川家康、吉田松陰、西郷隆盛などそうそうたる面々がならび、そこについに僕もならぶことになった。

とはいっても、まったく革命的思想をもたないいたって平和主義な僕にとっては、孟子の「仁義」に惹かれたまでのこと。自分にとってのぶれない軸を教育社として古典から学ぶのだ(どや顔)。

現状の社会状況や内紛や戦争、環境問題などの解決には、もうこれまでの近代思想で解決するのは難しいのでは。東洋思想から大きなヒントをもらえるのではないだろうか。

孟子は、紀元前400〜250年前、山東省済寧出身の儒学者。孔子の孫に学び、戦国時代に覇道政治をいさめて、王道政治を解いて回った人物。その弟子たちが書き記したのが有名な『孟子』。

人は環境によって変わるというあの「孟母三遷」のモデル少年のこと。余談だけど孟子のは母かなりタイガーマザー。「孟母断機」中途半端にするな!と孟子が勉学にさぼっていると自分の織物を切断してみせた母親。おだやかにいきたいものだ。

孟子いわく、「富国強兵や国の利益なんかじゃない。そんなことしてたら滅びるよ。『仁義』のみが王道政治なのだ」と、当時、戦争まっただ中の君主に、利益よりも仁義をといた。

ここにいくつか仁義にまつわる対話を紹介する。

「仁は人の安宅なり。義は人の正路なり」

仁は人が安心できる住まいである。義は人が胸を張って歩く正しい道のことである。

「仁は人の心なり。義は人の路なり」

仁は人の自然な心であり、義は人が踏みゆくべき正しい道である。

「君仁なれば仁ならざることなく、君義なれば義ならざることなし」君主が仁であれば人民も人徳を持つ人となり、君主が義であれば仁民も義の徳に生きる。このあたりは、子どもたちとのかかわり方や教室においてもかくありたい。

この情緒的な愛の概念である「仁」に対して、それを秩序に落とし込む「義」の概念を明確にしたことで、仁義の規範性が明確になった。

つまり、人とのかかわりは、真心と思いやり。

しかし、この仁義を学んだとしても、「熟した仁」と「熟していない仁」があることをいさめている。それは「仁義によりて行う vs 仁義を行う」であり、前者は仁義を自然とやるものであって、後者は仁義を努力してやるものである。

僕はまだ初心者コースで、道はまだ遠い。

孟子関連の本はいくつか読みましたが、以下の本が入門にもとてもよかったのでおすすめです。

子どもを注意するときの工夫 『月刊学校教育相談 10月号』

ほんの森出版から『月刊学校教育相談 10月号』をいただいた。開いてみると、しばらく前に寄稿した原稿が載っていた。

テーマは「子どもを注意するときの工夫」

こういったテーマをもらわないと、改めて自分の注意を立ち止まって考えることも言葉にすることもなかったので、自分をふりかえる意味でもとてもいい機会となった。

僕は教室ではあまり注意の多くない先生だと思っている。前任校では学校で一番優しい先生といわれ、勤務校では、一番口うるさい先生といわれている。

つまり、それって学級や子どもの状況によるため、クラスの状況に応じて常に注意を駆使しながら私たちはサバイバルしなければならない。

目に付くものすべてを注意はできない。何を言うべきかをその瞬間、その場面ごとに判断しなければならない。その指針となることに、僕は子どもとの関係性を重視している。

その子のニーズに応じたアセスメントから、何を注意して、何をそっとしておくのか。そして、僕自身が大事にしていることとは何か。注意するときに、自分の価値観と現実の差をつきつけられ、何を伝えるか思案している。

でもこういうことって小手先のテクニックじゃないしそればかりではうまくいかない。やっぱり、日々の授業や学校生活が充実していること、過ごしやすい環境となっていることこそ、しなくてもいい注意もトラブルもへるはずだ。

思うままに書いてしまったので、教室の日常そのもののかんじが文体にでてしまっていた。それよりも同じテーマで書かれたそれぞれの校種における先生方の話のほうが、僕にはない視点だったため面白く感じた。

石川尚子さんのコーチングを活かした、実況中継する技や子どもに今やっていることの価値を尋ねる質問などはすぐにでもマネしてみたい。山口聡さんからは抜き差しならない中学校現場も伝わってきた。高校の実践例から語る村上敏之さんは、子どもたちの言葉の背後を読み取ろうとするその柔らかさを学ばせてもらった。

さすが教育相談の本だけあって、子どもたちを原点として考える示唆が多い。子どもをそして自分自身をまるっとみようとするよいきっかけになると思います。よかったら、お手にとってください。

平和の声を挙げる

もっと声を挙げないといけない、そう思った。

うちの学校の高学年のカリキュラムには平和学習がある。平和教育には、僕がこれまであまりふれてこなかったこと、ふれてはいけなさそうだと勝手におもってしまっていた内容も多く、一から学ぶ気持ちでとりくんできた。

1学期は、東京大空襲で被災された方からの話をきいた。今日は、被爆2世の方から原爆投下時の話をきいた。次はウクライナ絵本作家の方から現地の子どもたちの様子をきく。そして、来月は広島へ行く。

直接、話をきくことで、心が揺さぶられる。どこか自分ごととしてとらえられてこなかったことが、少しずつ自分の中にしみわたってくる。こんなつらい話をどうして繰り返して話し続けられるのか、その使命感やしんどさも感じられた。

原爆について、多くの事実を知った。悲惨な事実が次々と伝えられる。戦争は、その後の生活そのものもつらいことも。祖父が生前、「食べるものがないのが一番辛かった」と話してくれたのを鮮明によみがえってきた。

どう理解し、受け止めていくのか、これから子どもたちと話し合って、考えていこうと思う。まずは知ることからはじまる。

昨年は、ロシアで広島の原爆の2000倍ある核兵器「サルマト」の実験も行われ、すでに配備されているようだ。そして、核兵器禁止条約に被爆国であるにもかかわらず参加できていない日本もいる。

今、自分たちにできること、身近なところからの平和からとおもっていたけれど、それだけではいけない気持ちになってきた。

「戦争というすべての過ちを繰り返さない。憎しみを乗り越えて。憎しみからは決して平和は生まれてこない」今日、この言葉がずっと心にのこって離れないままだ。

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ、どうして日本に住んでいながら、核についてあまり触れてこれなかったのだろう。これらに向き合うことは、痛みや苦しみ、また国際社会との関係や核の平和利用など、多くの要因によって複雑。田口ランディさんの本は、これらの複雑な感情や歴史を浮き彫りにしてくれ、日本に生きている自分と重なって読めてしまう秀逸な本だった。子どもたちにすすめたい。

ルーブリックを示すことって、学びを仕事化してしまわないの?

今朝、恒例の「数学者の時間」zoom早朝ミーティングがあった。そこで、出した話題がずっとモヤモヤしているので、書き出してみる。

話題は評価のことだった。ワークショップ授業は形成的評価がキモ。そして、自己評価の実践をもっと厚くしていくために、パフォーマンス課題をもとにしたルーブリックの扱いに話が及んだ。

僕は、ずっと以前から、ルーブリックを作るときに違和感を感じていた。これは自由進度の学習計画表(特に計算領域の練習)をつくるときも同じように感じてるのだけれど、「学習することは一つずつ塗りつぶしていくように、仕事化、タスク化されないか?」ということ。

ルーブリックや自由進度の計画表を示すとき、「これからやる学習は、みなさんはここまでやればいいんですよ」と言ってしまっているのではないか。そういわれているような気がしてしまう。もし、まちがっていたら、率直に教えてほしいです。ソレチガウガナと。

もちろん、学習者にとって、具体的にどんな学習目標で、それがどんな評価規準/基準となるのか共有し、見通しをもって学習に取り組むことは、いいことだと思うし、現に、僕も定期的にやっている。

しかしだ。

やればやるほど、なんだか、学びってこういう達成課題のようなものになりさがってしまっていいのだろうか。そもそも学校という構造そのものがそうなっているのか。出発点が子どもになく、カリキュラムにあるような印象をうけてしまう。

僕が思う学びって、もっと、勉強をやることと、やらないことの間にあるような、そこでうまれてくる教室のハプニングや子どもの文脈、勉強が得意な子やそういう子だけではない、いろんな中間的な何かから生まれたりして、そこで育っているものだと思う。決して、教科だけで人は育っていない。

このあたりは、もっと遊びと学びのこと、今、しぜん広場で遊び続けていることなど、もっとそういう実践の意味を言葉にしていく必要がありそう。引きずって考えていこうとおもう。

じゃぁ、今やっている「数学者の時間」って、目標や計画や見通しがないのだろうか。いやいや決してそういうわけじゃないし、綿密に準備していることもちゃんとあるし。

では、何があると数学者の時間なのか? 

そう質問されてみるとふたつだけのことだと考えた。一つ目は、ミニ・レッスン、ワークタイム、振り返り/共有のサイクルがあるワークショップ授業であること。二つ目が問題解決のサイクルを使って算数・数学していること。この二つが原則となる。

それ以外はけっこう自由でもある実践であるため、実践者の数だけのワークショップが生まれると考えている。これはとてもいいことだと思う。やり方に固執せず、どういうあり方がベースとなっていれば、数学者の時間とよべるのだと、明確だから。

やっぱり、教えることは、大切なことに絞って少ないほうがいい。このあたりのバランスをとれるようになれば、タスク化したこなす学習とちょっと距離をとれるのではないだろうか。

40年ぶりに、ゲームの攻略本を買ってみた笑。これまでずっとネット情報オフで遊んできたゲームが、なんだかこの続きはただの作業ゲーとなってしまった。これって同じこと?

「私たちはちがう。あなたを尊重します」は多様性を尊重していないって知ってた?

私たちはちがう。だから、あなたを尊重します。

これではダメなのです。多様性を尊重できていません。

人とのちがいをうけいれるには、こう考えるのがトーゼンと思っていた。でも、「これは多様性を尊重できていない」と、ズバっとサマータイムで一刀両断。

熊平さんのもとに通って、対話について学ぶ中で気付いたことだ。研修では、ほんのスライド一枚だったが、僕にはとくに納得するものだった。

これがなぜ、ダメなのか。

問題となるのは、「私」基準で、ものごとをみて、私から「あなた」を受け入れることが前提となっているからだ。

そもそも、私自身も、多様性の一部のはずなのに。

こういえるようになるには、自分を俯瞰してみるメタ認知能力が必須。

わかっていても、私たちは、話し合いの場面では、つい仲間の同質性をもとめてしまう傾向が強い。それは、安心したいからだ。

「お話をきいてたくさんの共通点があることに気付きました。」

「そうそう、同じことおもっていた」

「私たちいっしょね」

といった社会人なのにJKになってしまう。JKはそれでいいんです(対話の目的がちがうから)。

本来、一人ひとりちがっているにもかかわらず、そのちがいよりも、その共通点のみに目がいってしまいがち。こういったマインドでは、多様性の尊重をそもそもできないから、対話が新しい価値につながらない。

むむ。やはり「ちがいのわかる」人にならないとだ。ダバダ。

もし、ちがいに目がいくようならば、

「その考えは思いつかなかったなぁ。もっと話してください」

「全く逆のアイディア。ぜひ、その背景を教えてください」

「私たちぜんぜんちがうからいいのね」

ちがいをまちがいとせずに、わかろうとする一歩となるはずです。

はたして、人と話し合う場が、意見のちがいを賞賛される場となっているだろうか。これまで経験してきた職員会議でさえも、校長の「レイネンドーリ」という呪文きこえてきたら、みんな一気に同じ思考になって、考えなくなってしまっていた。僕もそうだった。

心理的安全性があるかないかで、その場の会話の価値がかわってきてしまう。ちゃんと、お互いのちがいを伝えるには、安心・安全の場となっていることが前提だ。これは、教室でも職場でも家庭でもどこでも同じことだと思う。

多様性をみとめるためには、まず、自分目線をおいて、その場の安心感をつくることからはじめてみようと思えた瞬間だった。

みなさんは、自分も多様性の一部だと思う瞬間ってどんなときですか?

夏に子どもたちと近所の川に魚の調査にいきました。身近な川にさえも、いろんな生き物がいて興奮しました。

本日休校。学校に行ってみたら1人だった

台風が去って行った。

近所には大きな影響はなかったけれど、学校は休校となった。子どもたちが喜んでいる姿が目にうかんできてしまう。

そして、そう、僕もじんわりと喜びをかみしめている。拳を突き上げて今からいっしょに、これからそいつをYAH YAH YHAしてしまいそうだ。

たまには休んだ方がいい。行きたくなったら行くくらいなのがいい。学校って、仕事ってそうはならないものなのか。

いくら役に立ったり、楽しかったり、好きだったりしても、毎日続くとつらくなるし。あ、妻とカレーはのぞく。

休校と言われたにもかかわらず、学校にいってみた。だって徒歩3分だから。さすが休校だけあって、だれもいない。あたりまえだ。われながらアホだとおもいつつ、うっかり登校してしまった子がいたりしないか、ドキドキしていた。けど、そういう所はしっかりしているのが子ども。結局、だれも来なかった笑。

けど、それでいいとおもう。休みの時に学校にうっかり来てしまうなんて、なんという愛校心。いや、我にかえろう。自分よ。

けど、一つ新しい発見もあった。休みにもかかわらず、浸水しないようにせっせと管理してくださる事務部の方たちがいた。本当にありがたいです。そして、こんな日にもかかわらず荷物を届けてくれる佐川急便さんも。

そう思うと、やっぱり地道に働くことは大切だとしんみりした。

みなさんは、どんな台風物語がありましたか。

みっちりと来週のお弁当のスープカレーのしこみができました。

台風とともにこの忙しさをバギクロス

とても慌ただしい。気もそぞろ。

運動会や修学旅行、授業参観の準備や懇談会など、いろいろなものが一気に動き出している。目まぐるしく子どもたちといろいろなことを決めて、また授業の準備もあわせてやって、定時に帰る事はここのところ難しい。

それでも「子どもたちとこんな授業やってみたいなー」とか考えてみると、取り組みはじめはしんどいけど、実際に授業を考え始めてしまうと、やっぱり楽しくなってきてしまう。24時間戦えてしまう錯覚におちいります。

「あの子がこんなこと言うだろうなぁ」とか「この子はきっと喜んでくいついてくるだろうなぁ」とか「つまずいている子には、こんな支援があるだろうな」とか、子どもたちの顔が目に浮かんでくる。こういう時間はなかなか楽しいものだ。

明日は台風。

何事もなく無事に1日が過ごせればいいと思う。でも一方で、子どもたちは明日の台風で休校になるかもしれないことに喜びと期待を隠せないでいた。それも素直な子どもの反応。しょうがない。子どもは無敵。

今日の算数は、5年から200回目の記念で「おいしい算数」でした。食塩水の均等分布について実際に濃さを確かめようとなめてみたりした。データをとるため代表の4人の子たちはてんでバラバラの回答だった。こうもちがうのかとみんなで笑った。そして、数値でちゃんと計算しないといけないことに気付くようになる。

忙しい中にも子どもたちとのこういう時間 は、とても楽しいものだ。先生ってやっぱりいい仕事だなぁって思う。そりゃ忙しいけど。

みなさんは、やることが多くて忙しすぎて、緊張しているのか、朝早く目覚めてしまうことってありませんか?

塩、砂糖、ポカリのくじ引きで、みごとポカリをひきあてた子どもたち

問いの暴力

きかれたら、答えなければいけない。

本当はこたえたくないことなのに、考えたくないことなのに、ふれてほしくないことなのに、心がざらつくような問いをなげかけられることがある。

矢継ぎ早に質問して、話の筋道が少しでもちがうと論破しようとする人もいる。

無理に答える必要はなりはずなのに、きかれると、なんだか答えなければいけない気持ちがしてしまう。

問いはときに暴力的だ。

難しいのは、フィードバックとして、直接、まちがっているところを指摘するのではなく、改善点を質問としてなげかけること。これは僕自身もよく使ってしまう。

相手との関係もあるかもしれないけど、回りくどくきくのではなく、率直にきけばいいと思う。「あなた、チャックが開いていますよ」と。

問うことが悪いのではなく、問いは相手に考えてもらえるような「あいだ」を与えてくれるよさがある。ただ、そこに、問われたい、もしくは問われても受け止めようと思えるような「問いの主体」を問いかけられた人がもっていられるといい。

問いには、自分もちゃんと向き合って、考えたいと思えるものかどうかということが大事だと思う。

だから、問いにはそのとき、そのとき、拒否権があっていい。こればっかりは問わないと、相手にとっての問いになっているかどうか、わからないからだ。相手が何に傷つき、何を触れてほしくないのかは、きいてみないとわからないことも多い。

そして、考えてみたくなったときに、その問いをちゃんと引き取っていけばいい。その瞬間で答える責任はだれにもないはず。

そう考えるふしがあるから、僕はいろいろ質問されても、スルーしてしまうところがあるんだと思う。

自分も相手も大切にする問いとは、どんな問いなんだろう(自問)?

こういう靴下のときには問わないで、指摘もせずにそっとしておいてほしいです。