職員室の電話をとったら、ひょんなことで幼稚園と共同研究をしている大妻女子大の久保健太さんと話をすることができた。
久保さんは僕が大好きな教育者だ。久保さんの話は常に僕の好奇心をくすぐるような哲学的な刺激を与えてくれる方だ。久保さんが幼稚園に来られるときはできるかぎり会って話をしたい。僕が興味をもちはじめ今期のLAFTで研究している「中動態」についても、久保さん経由からの学びである。
その久保さんが「最近、また本を出したのでぜひ」と紹介があったのでさっそく読み始めた。するとちょうど今、LAFTで研究している「授業の中における中動態をおこす(そもそも中動態から意図的に何かを発生させるのは言語論的に矛盾しているのだが)」ためのヒントとなるような記述が溢れていたので、興奮してしまった。
久保健太『生命と学びの哲学 育児と保育・教育をつなぐ』
LAFTの今回のテーマ本となっている佐伯胖・編著『子どもの遊びを考える』に寄稿している部分からも「第5章 遊びの語り方を変えよう 中動態としての遊び」が掲載されている。
一番、考えたくなったのが「6章 感覚が湧き出ちゃうし、収まっちゃうときの主体性 保育者と語る中動態と主体性」のところだった。
僕は授業の中に子どもたちの主体性を発揮して、おもしろいアイディアがあふれるような授業づくりをしたいと考えいてる。その発動条件に中動態があると予想し、中動態をつくるにはどういうセッティングが必要なのかを模索している。
218
”能動的に起こしたというよりも、半ば偶然に中動態的に起きてしまったものである。スコップを落としたのではなく落ちたわけだし、帽子を誰かが濡らしたのではなく、ちょっとしたひょうしで濡れた。そうした偶然の力によって水の心地よさと出会うことができた。偶然の力を借りることで出会うさらなる水の心地よさ、言い換えれば、水が秘めていたその奥行きである”(同書P.218)
奥行きだって。うーん。しびれる。この場面は幼稚園の子どもたちが水遊びをしていて、おもいもよろなような遊びがうまれちゃった場面のことだ。この「水」が子どもの可能性を引き上げてくれている素材となっていることがわかる。これは扱う教材の奥行き、つまりその深掘りできる可能性があれば、こういうことが生まれやすくなるのでは。
僕は、自然物がそういうものを発動させることが多いだろうとうっすら考えているが、それを教材として扱えるにはどんな学習内容がふさわしいのかおぼろげに見えてきた。
それには、一人ひとりがセンスを生み出すこと。つまりその子にとっての感覚的な意味をつくりだしてくれることが必要だ。
一方で「センス・オブ・ワンダー」に触れつつ、久保さんはこうも書いていた
“世界の奥行きと人間が出会えば自動的にセンスが生まれるわけではない。生まれちゃうわけではない。世界の奥行きに感じて応じるセンスオブワンダーが必要である。水が繰り広げる奥行きに凄いと感じ応じてしまうからこそ、水の意味、つまりセンスが生まれてくる”(同書P.220)
センス・オブ・ワンダーを引き合いに、「感じること」から主体性を捉え直している。すると授業においては、奥行きある教材との出会いがあり、そこから一人ひとりが感じるセンス・オブ・ワンダーが生まれると、一人ひとりのセンスが生み出される。この一人ひとりのおもしろい!って思うセンスに突き動かされて、お互い刺激し合いながら、試行錯誤することで、アイディアが飛来してきちゃうのが中動態の授業のイメージといったところだろうか。
これなら、数学者の時間においてはふつうにうまれている場面じゃなかろうか。アイディアが「ひらめいちゃう」のは、これまで僕は数学者ノートを書いて思考のスピードを落として、じっくり待つことだとおもっていけれど、友だちとアイディアを出し合う共同研究という視点が加われば、つまり中動態の場を活用すれば、もっとよりよく「ひらめいちゃう」のではなかろうか。
ということをひらめいちゃったので、なんだかとてもわくわくしている。明日の数学者は場に飛び交う子どもたちの挙動に注目してみよう。