学級づくり

「生命とはエネルギーの円環であり、絶えず流れ続けるもの」LAFTで火の鳥展をみてきた

念願叶って『火の鳥展』を見に行くことができた。開幕してから2日目の訪問である。今回、何よりも楽しみにしていたのは、福岡伸一が手塚治虫の『火の鳥』における生命観をどのように解釈するのか、という点だった。

福岡伸一といえば「動的平衡」の生命観を提唱していることで知られている。機械と異なり、生命は常に変化し続けるプロセスの中にあり、その躍動するプロセスそのものが生命であるとする考え方だ。今回の展示では「エントロピー増大」というキーワードがサブテーマとして掲げられている。世の中のあらゆるものは、常に崩壊に向かう法則に従っているが、生命はそれに抗うように、自らを破壊しつつ新たな細胞を生成し、命をつないでいく。

このような生命観が手塚治虫の『火の鳥』における「生と死」の描写とどのように結びつくのか。まさに待ちに待ったテーマであり、期待は高まるばかりだった。

今回は、LAFTのメンバー4人に加え、子ども1名も同行。全員が「火の鳥経験者」たちの集まり。六本木で待ち合わせをし、オタク集団(?)は意気揚々と展示を巡り始めた。

会場に足を踏み入れると、1巻から12巻までの各原画が展示され、それぞれにあらすじと福岡伸一による解説が添えられていた。驚いたことに、『火の鳥』は巻を重ねるごとに過去と未来を往還し、現代に近づいていく構想で描かれていたという。これを知っただけでも、大きな収穫だった!

手塚治虫の『火の鳥』は、時間軸を交錯させながら、過去から未来へと収束する円環構造を持つ壮大な物語となっていた。この構成は単なる表現技法の妙技ではなく、生命や宇宙の本質そのものを現すための必然的な形態であったのではないだろうか。

物語の時間軸は、古代から未来へ、あるいは未来から古代へと振り子のように揺れ動きながら、最終的に「現代」へと収束する。手塚は描かれなかった「現代編」を「自分の身体から魂が離れるとき」と解釈していた。それは、彼にとっての「現代」とは、彼自身の死の瞬間であり、『火の鳥』という物語全体の円環の着地点に他ならない。

1989年2月9日、手塚治虫は逝去した。そして最後の一コマを描くことは叶わなかった。福岡の解説によると、この未完の一コマこそが、手塚の生命観を象徴するものであったと推測している。

生命とは何か。

この問いに対し、手塚は『火の鳥』を通じて一つのイデオロギーを提示している。それは、生命とは宇宙エネルギーの一時的な集積に過ぎないという考え方だ。生き物が死ねば、そのエネルギーは宇宙に散らばり、新たな生命が誕生する際に再び吸収されていく。生命とは宇宙エネルギーの循環の一部であり、その流れの中で一時的な形をとっているに過ぎないと解釈できる。

この考え方は、福岡伸一が提唱する「動的平衡」と本質的に一致する。生命は静的な存在ではなく、絶えず分子の流れを通じて入れ替わり続ける。私たちは個として存在するように見えても、実際には絶え間ない物質の交換の中にあり、固定されたものではない。手塚が『火の鳥』で描いた生命の円環構造は、まさにこの動的平衡の概念を物語の形式として表現したものではないだろうか。展示場を進むにつれて、こういう生命の円環経験ができるようになっていたことに、終わってみると気づけるところがまた面白い。

また、『火の鳥』には、輪廻転生の思想が貫かれている。『鳳凰編』の主人公である我王は、小さな石工職人として生まれながら、今後、数々の転生を繰り返しながら、最終的には宇宙船の設計者として未来に現れる。彼の人生は無数の因果の連鎖の中で繰り返され★、そこには明確な終わりがない。これは、単なる仏教的な輪廻転生の表現にとどまらず、生命がエネルギーの流れの中で形を変えながら存続していくという、物理的・生物学的な事実とも合致しているだろう。その点では、『ブッダ』を越えていく手塚の生命観でもあり、おもしろく見学できた。

★我王は今後、猿田(猿田による宇宙船内の殺人により、火の鳥により輪廻転生の呪いをかけられ永遠に苦しんでいく転生がつづいていく)、猿田彦、猿田博士、八儀家正といった自分に転生し、時空を越えて生き続けることなる。個人的に『火の鳥』最大傑作は『鳳凰編』にある。小学生中学年だった当時、アニメ映画やファミコンソフトにもなったあの傑作は忘れられない。

手塚治虫がこういった思想に至ったのは、彼が虫オタクや医学博士としての科学的な視点を持ちつつも、人間の生と死に深い関心を寄せていたからだろう。彼は医学を学びながらも漫画家の道を選び、その作品を通じて生命の神秘に迫り続けた。そして『火の鳥』において、彼はついに一つの答えを提示する。

それは「生命とは宇宙エネルギーのほんの一瞬の仮の姿に過ぎない」という考え方である。

敷衍すれば、手塚の死そのものが『火の鳥』の物語の一部となる。彼が最後の一コマを描くことなく亡くなったことは、作品の円環を未完のままにすることで、生命の流転というテーマをさらに際立たせる結果となってしまった。本来は「現代編」を描いて、終わらせたかったはずである。今回「火の鳥展」のキービジュアルには、火の鳥が白いシーツの上に立っている。それは、手塚が描ききれなかった最後の1コマである手塚自身の死であった!

『火の鳥』が描いたのは、単なる輪廻転生の物語ではない。それは、生命とはエネルギーの円環であり、絶えず流れ続けるものであるという、宇宙的な視座を持った哲学的な探究であったにちがいない。

どんな小さな生物にも生命があり、エネルギーは絶えずめぐっていく。生と死の連続し、永遠に受け継がれていくだろうというメッセージ。これは福岡伸一のいう生命は流れの中にある動的平衡であることと一致しているからこそ、今回の「火の鳥展」の企画監修を引き受けたことが語られていた。

まさか、子どものころより読み込んできた手塚作品が、福岡伸一の生命観でトレースされるとは思ってもみなかっただけに、大満足のLAFT生命編だった。

次回は、LAFT松本零士編!あるかもよ!笑。ちなみに最近の夜読書は『銀河鉄道999』で、あのメカニックな表現とへたうまいキャラクターたちがたまらない。

LAFT中動態スピンオフ 矢野さんとの対話 カエルがいたらゆでるでしょ!? 主体性の揺れを考える

先日『子どもの遊びを考える』の提案章を執筆した矢野勇樹さんと、LAFTメンバーの内輪でオンライン対話を行った。気軽にさまざまな話ができる貴重な時間だった。

矢野さん自身は現在、教育理論や実践の場には関わっていないようだが、当時のことを振り返りながら丁寧に語ってくれた。その穏やかな語り口の中には鋭い視点が光っていた。

「カエルがいたらゆでるでしょ?」 遊びの主体性と中動態

対話の中で印象的だったのが、「カエルがいたらゆでるでしょ。子どもは」というエピソードである。

「能動/受動」の枠組みでは捉えきれない「遊び」という行為。遊びとはそもそも、誰かに「遊ばされる」ものではなく、内側から沸き起こるものだと中動態を援用して、矢野さんは提起している。この視点から、遊びは「能動/中動」の枠組みでこそ記述されるべきだと指摘している。

プレーパーク冒険遊び場の話も興味深かった。子どもたちは「よーし、今日はカエルを捕まえるぞ! そして火を起こすぞ! よし、ゆでてみよう!」と事前に計画して遊び場に集まるわけではない。その場にカエルがいたら、ふと「ゆでてみよう」とひらめいてしまう。こうした「内側からのひらめき」を矢野さんは主体性ではないかと呼んでいた。

僕自身も子どもの頃、駄菓子屋で爆竹を買い、公園で友達と遊んでいた記憶がある。水辺には小さなカエルがいて、目の前に爆竹があると「試してみよう」とひらめいてしまう。今となっては考えられないが、あの頃の僕もまた、確かに僕だった。こうした衝動やひらめきは、主体性のどのような側面に関わるのだろうか。

主体性Aと主体性B 子どもの成長におけるせめぎ合い

この話を聞いて、僕が思い出したのは大妻女子大学の久保健太さんが提唱する「主体性A」と「主体性B」の違いだ。

  • 主体性A:「やりたい」「やりたくない」「なんかいい」「なんかやだ」といった直感的な感覚が自然に生じることで、「生きている実感」に満たされる。理由や論理を必要とせず、ただ感じることそのものに価値がある。
  • 主体性B:主体性Aによって湧き出た感覚や感情を整理し、それに基づいて「するかしないか」を決定する働き。これは思考や知性の関与を必要とする「行為主体性(agency)」であり、OECDが好む「主体性」の概念に近い。

この二つは対立するものではなく、連動しながら人が「主体であること」を生きるための重要なプロセスとなる。

子どもが成長する過程では、主体性Aと主体性Bがせめぎ合いながら発達していく。幼少期には主体性Aが強く、「やりたい」「やりたくない」という衝動が表に出ることが多い。しかし、成長とともに主体性Bが加わり、自分なりの判断基準や社会との関係性を踏まえた選択をするようになる。この発達は「ゆれ」として現れ、「自由にやりたい」という気持ちと「約束を守らなければならない」という意識の間で葛藤して子どもは成長していく。

また、主体性Bには「倫理的な感覚」も含まれている。「風邪をひくからやめなさい」と言われるのではなく、「寒いと感じたからやめる」というように、自分の身体の声を聞いて判断する。これは外部から押し付けられた道徳的規範ではなく、自らの内側から生まれる倫理のことである。

主体性を理解するために

こうして考えると、主体性は単に「自由に選択する力」ではなく、「内側から湧き出る感覚」と「それを整理しながら行為へとつなげる働き」の相互作用として捉えられるべきだろう。教育や保育の現場で主体性を表層的に捉えることなく、より深い理解につなげるためには、この二重の働きを意識することが重要になる。

このあたりについては、久保健太さんの『写真と動画でわかる!「主体性」から理解する子どもの発達』が詳しいので、参考にしたい。その思想的背景にジル・ドゥルーズ哲学があり、ここも面白いのでつい読み始めてしまう。

つまり、「やりたいからやる」という単純な話ではなく、やらないという選択にもまた、複雑な心理的な背景がある。この背景を「関係論」的に捉え、その子の内側にある物語を読み取ろうとしなければ、本当の意味で主体性を理解することはできないだろう。これは、教育の現場にいる僕たちにとって非常に大きな課題であり、責任でもある。ひー、しんどい。

LAFTラジオ 対話の場をつくる

今回の対話を通して、改めて「人と話すことの面白さ」を実感した。対話を通じて学びが整理され、思考が深まっていく。

こうした学びの場を、オンラインでも今後作っていきたいと考えている。名付けて「LAFTラジオ」。今年は、テーマに近しい人や著作者を招き、その人の考えをたっぷり聞きながら自由に対談する場をつくる予定。これからどんな対話が生まれるのか、楽しみだなぁ。

なぜ今、「学習科学」なのか

今期のLAFTのテーマは学習科学とした。テーマ本は『人はいかに学ぶのか』だが、その第一版である『授業を変える 認知心理学のさらなる挑戦』はすでに持っていた。本にはレシートが挟まっていて、よく見ると2011年の日付。ページにはいくつか線が引いてあったが、改めて読み直してみると、当時の自分の視点はずいぶんピントがずれているように感じてしまう。でも、ナイスチョイス。その選択が今につながっているのだから。

『人はいかに学ぶか』はその第二版にあたる。米国では2018年に出版され、それまでの約20年間の知見が集約されたものだ。それが4年を経て邦訳され、手に取ってはいたものの、知っているつもりで深く読み込まず、積ん読状態になっていた。

今回のLAFTでは、あのとき実現できなかった「効果的な学習のポイント」を活かしながら、よりよい授業をつくっていきたい。個人的には、「数学者の時間」における理論的背景や、学習科学を用いた授業実践をさらに深められたらと思っている。とはいえ、さっそく第一章に「理論を実践に移すには相当困難を極める」との論文が紹介されていて、早くも詰んだ(笑)。

学習科学といえば、2019年にジョン・ハッティの『教育効果を可視化する学習科学』をテーマ本として扱ったことがある。これは当時、日本でも話題となっていたエビデンスベースの実践研究で、振り返ってみると、これが「学習科学」への僕の入り口でもあった。

半年という時間をかけてじっくりと読み解くことで、エビデンスの扱いについても理解が深まった実感がある。あくまでもメタ分析であり、より効果的な実践を示唆してはいるが、それを目の前の子どもたちにどう援用するかは、やはり難しさを感じる部分でもあった。今回は、そうした量的な分析を越えて、質的な側面にも踏み込んでみたい。

当時のLAFTエビデンスは、第5回目がコロナの影響で実施できずに終わってしまった。翻訳者の原田信之さんからは、「LAFTでの取り組みや実践を学会で発表してはどうか」と勧めていただいたが、それも実現には至らなかった。

エビデンスを広く集めて分析する量的な研究の枠を超え、質的な教育的価値をどのように提示できるのか。「学習科学」研究では、それが可能なのだろうか。今回のLAFT学習科学での取り組みが、そのヒントを与えてくれることを期待している。

そもそも、なぜ今回のテーマを学習科学に決めたのか。それは、前回LAFTのテーマであった中動態からの流れにある。もし中動態に筋肉があるとするならば(ないけど)、僕の中では「上腕中動態筋」がパンプアップしている。それは子どもたちの姿を中動態的に捉えられるようになってきたということだ。実在論的な理解から関係論的な理解へと、自分の見方が変化してきた。

佐伯胖によれば、関係論とは、事物を説明する際に、その事物自体の構造や属性だけで説明するのではなく、事物がどのように見えるか、どのようなあり方をするかを、他の事物との関係性の中で捉える立場である。これらの関係が独自の状況を生み出し、人間の行為もまた、その状況に埋め込まれている。この関係論的な見方は「状況論的な見方」とも呼ばれる。ようやくこの状況に埋め込まれた学習について理解が及ぶようになってきた。

「関係論」的な見方では、行為を周囲との関係性の中で理解する。例えば、一人で遊ぶ子どもの行為には、仲間に入れてもらえなかった経験、保育者の関心を待つ姿勢、あるいは純粋に砂の感触を楽しむ意図など、さまざまな背景があり得るだろう。このように、行為は子どもを取り巻く状況や過去の出来事、周囲の関係によって意味づけられている。

一方で、「実体論」的な見方では、行為の原因を子どもの心の中に求めがちである。「○○したいから」「○○が嫌だから」といった内面の解釈を試みるが、行為の原因が本人の意図に基づくとは限らないのが実情だろう。むしろ、その時々の状況や関係性によって、そうせざるを得なかったケースも多い。原因を無理に特定しようとすると、誤解や誤った原因の捏造を生んでしまう危険性もある。このあたりは國分功一郎が説く責任の生成にも詳しいので参照にされたい。

関係論の視点では、行為には未知性が伴うと考え、説明のつかない行動を既知の枠組みに押し込めることを避けることができる。重要なことは、子どもを直接見るのではなく、子どもを通して周囲の状況を見て行為を理解すること。これにより、行為を関係性の中で捉えることが可能になれる。

中動態について学び続けてきたおかげで、こうした理解がすんなりと自分の中にインストールされた感覚がある。そして、この関係性の視点をベースに、社会構成主義を背景とする「学習科学」へと敷衍していくことが、今回のLAFTの狙いである。次への一歩というかんじだ。

LAFTでの学びとは、やってみないと分からないことばかりの連続である。学びの成果は、事後的にしか分からない。メンバーと共に読んで、考え、実践して、また読む――そうした積み重ねの中に学びが埋め込まれていたことに、後になって気づく。

そもそもLAFTは、当時、管理職に締め付けられていた若手教員が奮起し、中心に始めた学習サークルだった。「先生こそ学びを楽しまなければ、子どもたちが学びを楽しめるはずがない」という思いで始めた。それが続いていくうちに、お互いの苦労を語り合い、癒やし合う場にもなっていた。そのコンセプトは今も変わっていない。そして経験を重ねることで、今年で14年目となった。

今、僕はもう若手ではない。自分が学びたいと思っても、その学びの場を見つけることができなくなっている。若い人たちは自ら学びに飛び込んでいくが、中年の僕は、学びたいと思っても、なかなか場がない。ならば仕方ない。自分で作るしかない。そんな思いで、自分の思想や教育哲学を更新するつもりで、LAFTを続けている。

今回のLAFTには、いくつか新しい試みがある。前回のテーマ本『中動態の世界』は、読書体力の求められる本だった。一人では走りきれなかったからこそ、集団で語り合いながら読み進められたのはよかった。

今回取り上げる『人はいかに学ぶのか』は、教育界の大御所・秋田喜代美さんが翻訳・編著を手がけた一冊だ。もしかすると、直接こうした学習科学の背景について話を聞けるチャンスがあるかもしれないし、ないかもしれない。

この本も学術書だけに、一人で読みこなすのはなかなか大変だ。そこで、今回は単なるブッククラブではなく、各章を担当制にし、それぞれのサマリーをプレゼンしてもらおうと思う。というのも、僕自身が最近この方法で読書を進めていて、とても知識がつくられている実感をもてているからだ。読書プレゼンという形にすることで、理解がより深まるはずだ。

さらに、オンラインで「LAFTラジオ」も始めたいと考えている。この構想については、また改めて機会をもって詳しく報告したい。

いずれにしても、学びには時間をかけることが欠かせない。一朝一夕でペロッと新しい情報を取り入れたとしても、それが生きた知識として磨き上げられることはないなぁ。だからこそ、学習科学を通して、我々自身も「学ぶコツ」を学んでしまおう、というわけだ。

本の読み方を変えてみたら、とても賢くなった(気がする)

年末からこの2ヶ月は、原稿の仕上げにじっくり向き合ったり、それに必要な本を改めて読み直してまとめたりと、けっこう生産的な時間を過ごせたと思う。

本の読み方も、だいぶ変わってきたなぁ。以前は手当たり次第にたくさん読んでいたけれど、今は一つの本をじっくりと理解するために、線を引いたり、ツッコミを入れたり、持論をメモしたり、わざわざ文章にまとめたり、スライドを作ったりと、そういうことを繰り返している。すると、自分の頭の中で何かがつながってくる感じがあり、知識が形作られていく感覚が生まれる。

なるほど、これが「知識をつくる」ということか。

知っていることで終わりがちな知識を、「わざわざ」まとめ直す。このプロセスを経ることで、自分の中にしっかりと定着した知識になっていくのだと、ようやく実感できるようになってきた。結構手間がかかるものだけど、ここ数ヶ月続けてきて本当に効果を感じているので、おすすめしたい。

まぁ、だからこそ、じっくり読みたくなる本と出会うためにも、多読も欠かせないんだけど。そのジレンマ。

最近、面白いなと思った本に、メリアン・ウルフの『プルーストとイカ』がある。読書が人間の脳に与える影響を、神経科学や認知科学の視点から解明してくれる本だ。

「読書が苦手な子は一体何につまづいているのか」を知りたくてこの本を手に取ったのだけれど、ところがどっこい、これまでの自分の読書方法がいかに浅はかだったか、反省させられた。

読書は生まれつき備わっている能力ではなく、脳の再配線(ニューロプラスティシティ)によって獲得される能力であること。読書は、脳の可塑性を活かした高度なスキルであり、文字を解読することで脳の回路が強化され、より複雑な思考が可能になること。ふむふむ。

これまで僕の読書傾向は、多くの情報にできるだけアクセスし、スキミングする技術には長けていた。けれど、そういう読み方では脳は育たないし、深く考えることにも至らない。どころか、集中力すら身につかない。

読書は単なる情報の受け取りではなく、推論したり分析したり、より重要なことを見つけるための批判的思考を促すしてくれるもの。また、文脈を想像したり、共感したりすることで、より高度な認知活動を活性化させる。だから、読まないのはもったいない。

じっくりと思考することと、情報を集めることとはちがう。スマホの小さな画面でいくら断片的に情報を集めても、なかなか熟考するには至らない。文字と文字を読みながら、そこに書かれていない行間や文脈を予測し、想像すること。これこそ、深く考えるために必要なことなのだ。だが、SNSではこうした読書の醍醐味を味わうのが難しい。

『プルーストとイカ』の終章でも、このあたりのことが課題として挙げられていた。今後、デジタルとフィジカルな読書のハイブリッドな方法をどう確立するか、という問題だ。続編の『デジタルで読む脳 紙の本で読む脳』も面白そうなので、ぜひ読んでみたい。というか積ん読本だったのでようやく日の目を浴びる。

以前、福岡伸一さんが「紙の本には束(厚さのこと)がある。これが読む地図となり、記憶となる」という話をされていた。紙の本なら「この知識は本のどのあたりに書かれていたか」がわかる。身体感覚を伴って読むことこそが、紙の読書の強みだということだ。福岡さんはそのためか、デジタル本は一切出していない。こういう徹底した姿勢も、とても好きなところ。

はたして、昨今デジタル教科書を推進しようとしているワーキンググループの人たちは、こうした読書の本質について、どれだけ積極的に議論しているのだろうか。しらんけど。

やっぱり、本を読むことは大事だ。細切れの時間でもいいから、常に本を読む習慣と、それを「わざわざ」加工する習慣の両方を持つことを続けていきたい。賢くなれそうだし。

LAFTで國分功一郎さんから中動態を学ぶ

LAFTに國分功一郎さんをお招きし、「中動態」とは何かについて教えていただいた。また、その後の対話を通じて、中動態にまつわるさまざまな視点を共有する場を設けた。

なぜ自分は中動態という概念にこれほどまでに魅了されているのだろう。

この問いのきっかけは、2018年頃にさかのぼる。当時から幼稚園の共同研究者であった大妻女子の久保健太さんから教えてもらった「中動態」という言葉。その響きに当初は漠然とした興味を持ちつつ、「主体性とは果たして個別の意思だけで成り立つものなのか」という問いが生まれた。それ以来、細々とその関心を持続させてきたが、今年はついに中動態をLAFTのテーマとして本格的に取り上げることに決めた。

中動態という古くも新しい概念を学ぶ中で、これまで目にしていたのに見えていなかったものが、少しずつ輪郭を帯びてきた。あるいは、気づこうとしても気づけなかったもの、と言えるかもしれない。僕たちは普段、言語を介して思考を規定されている。能動と受動という文法構造は、当たり前のように日々使われているため、その「あたりまえ」に目を向けることが非常に難しい。しかし中動態は、能動の対になるものが受動ではなく、中動態という第三の「態」であることを教えてくれた。

この理解が少しずつ深まることで、教育における違和感にも改めて気づけるようになった。たとえば、子どもの遊びにおける主体性の捉え方、一人ひとりの能力を伸ばすことを強調する風潮への違和感、あるいは新自由主義を批判的に捉え、「コモン」や「コミュニティ」といった概念を通じて、人と人がどのように弱さを共有し合いながら生きていくのかを考える視点が芽生えてきた。こうした考えの変遷は、常に中動態と共にあったと思う。だからこそ、中動態は単なる文法の「態」にとどまらず、教育観を見直すための強力な概念として僕に響いている。今回、國分功一郎さんをLAFTに招いた背景には、こうした思いがあったのだった。

國分さんの話の多くは書籍で既に触れた内容だったかもしれない。でも、中動態の第一人者から直接話を伺うことで得られるライブ感、そこから生まれる高揚感は特別としかいいようがなかった。ミーハーな気持ちでこっそりサインももらってしまった笑。

印象に残ったのは、責任や意思という概念が本来持っているはずの別の可能性についての話だった。「応答するもの」という責任の語源、そしてそれが刑法をベースにした個人責任の枠組みにどうねじ曲げられたのか。古代ギリシャでは2000年ほど前までは言語にはかつて「意思」というものが存在しなかった。この能動と中動態という二つの態で表現されていた言語が、個別の責任を帰属させるために変容し、現在の「能動」と「受動」という枠組みへと固定化された背景は非常に興味深かった。

では、これを教育にどう活かせるのか。

今回の研修だけでは答えを出し切ることは難しかったが、参加者とこのテーマについてもっと語り合う機会を近々設けたいと考えている。そうした場を通じて、さらに中動態と教育の可能性を探求していきたい。

それでも、翌日のある会議では、責任を誰かに押し付けるのではなく、「みんなで引き取る」という発想をさっそく共有することができた。これは間違いなく今回の研修が後押ししてくれた成果だったはず。ある問題の背景や文脈、関係性を丁寧に紐解いていくことで、子どもたちが抱える問題も自然と解消されていくのではないか。その責任を短絡的にその子にのみ押しつけても、表面的には見えなくなっただけで本質的には解決していない。その行動のは畏敬そのものを捉える、このプロセスこそが子どもを理解することの本質であり、そこから立ち上がる新たなアイデアやヒントは、中動態的な発想の中で生まれるものだと思えるようになってきた。

しばらく自分の内側にわきおこってくる中動態的な何かを大切にしながら生活していこうと思う。様々な分野、そして遠くからもLAFT中動態へ参加してくださった方、ありがとうございました。次回は、オンラインでやる予定です!

みんな、バスケしようぜ!

昨日、社会人バスケットボールチームとして20周年を迎えた。この節目の日には、現在のメンバーはもちろん、創設当初の仲間たちも駆けつけてくれた。ささやかながら、温かく素敵な会であった。

特に感慨深かったのは、創設当初から僕を含めた5人が、今なおコアメンバーとしてチームに参加し続けていることである。「バスケをやりたいね」と同期の仲間たちと声をかけあったのが始まりだった。振り返ってみれば、この20年間、毎週末欠かさず練習を続けてきた。その回数は優に1000回を超える。

仮に1回3時間の練習とすれば、部活動に費やした中高時代とほとんど変わらない時間を、このチームで過ごしていることになる。

まだチームが若い頃は、夏や冬の合宿で朝トレや夜トレまでをこなしていた時期もあった。海外赴任した仲間を訪ね、マレーシアで国際交流バスケを楽しんだこともある。夢が叶い、仲間とロサンゼルスでNBA観戦をしたことも忘れられない思い出だ。仲間の結婚式を祝ったり、チーム内から幾組ものカップルが誕生したこともあった。最近では、恒例のビアガーデンや忘年会、そして何よりも大会後の「プレイタイムは30分、反省会は5時間」が楽しみの一つとなっている。

自分自身、昔から協調性がなく、人と何かを一緒にするのが苦手だった。一つのことを継続することも得意ではなかった。しかし振り返ると、この20年、チームの中心としてここまでやってこられたことに驚く。ただし、これは決して一人の力ではなく、仲間がいてくれたからこその成果である。

バスケが好きで、バスケをやりたい人はたくさんいると思う。でも、毎週末10人以上のメンバーを集め続けることは簡単ではない。過去には3対3の練習しかできない辛い時期もあったが、その冬の時代を乗り越え、今では安定して3チームで交流戦ができるほどメンバーが集まるようになった。

うちのチームのモットーは「楽しく、マナー良く、平等に」である。最近は勝ちにこだわりすぎる場面も見受けられるが、毎週末を気持ちよく楽しむことを大切にしたい。ここ数年はピック&ロールを中心に、2対2や3対3、5対5のチームオフェンスを磨いている。来年度はホーンズセットに挑戦するのも面白いかもしれない。まだまだ成長の余地があることに楽しみしかない。

週末のバスケのおかげで、どんな嫌なことがあっても、すっきりとストレスを解消できる。本当にメンタルが爆上がりだ。教師という仕事柄、日常では自分をコントロールする場面が多いが、週末は全力でプレイし、ときには激しい言い合いもある。それでも、同じ目標を持つ仲間とぶつかり合えることは本当にありがたい。試合ではまた同じチームメイトとして力を合わせられる。この関係性が心地よい。

シニアリーグでは今年も決して楽なシーズンではなかった。年度初めには7連敗を喫し、なかなかリーグ戦で勝つことができなかった。しかし、毎月の大会でコツコツとポイントを稼ぎ、ついに優勝決定戦まで進出した。そして、最後には連勝を重ね、年間リーグ優勝を果たした。これで3年連続のS2リーグ優勝3連覇である。この結果にはほっとすると同時に、やり遂げた充実感がある。

40歳を超え、シニアリーグで本気でバスケを続けている自分に驚くこともある。しかし、これが自分の生活の一部となっている。10月からは日本のバスケットボールリーグが開幕し、週末の試合観戦も加わる。忙しい日々は続くが、それもまた充実感の一つである。

バスケを続けてきたおかげで体力は充実している。そして、バスケを続けるために日々のトレーニングも欠かしていない。ほんと、月曜日は疲れをひきずっているけど、今日もトレーニングへ行ってきた。その相乗効果で、ますますバスケへの熱が高まっている。

20周年の会では、過去の動画やプレイ映像を振り返りながら、一人ひとりがスピーチを行った。涙ぐむ場面もあり、普段は語られないそれぞれの思いが溢れていた。本当に素晴らしい仲間と巡り会えたと感じる。

人生を振り返ると、社会人になってからの道のりはバスケと共にあった。そして、その道を共に歩んでくれた同期の仲間たちに心から感謝している。60歳を超えてもバスケを続けることが目標である。

みんな、バスケしようぜ。

歳をとってきて、良いこともあれば悲しいこともある

Facebookのプロフィール写真を更新してみた。以前の僕とはもうすでに違う、別の僕になってしまったように感じたからだ。改めて自分の姿を見てみると、やっぱり「歳をとったなぁ」としみじみ思う。その象徴が「白髪」だ。

髪に変化が出てきた。もともと若い頃からもみあげが白かったため、妻からは「モミシラ」とからかわれていた。今年に入ってからは、頭髪全体に白髪がめっきり増えてきた。だが、それも最近は悪くないと思えるようになった。無理に染めるのは自分らしくないし、自然体でいるほうが心地よいと感じるからだ。

子どもたちにも「イガせん、白髪増えたね」と言われることがある。そんなとき、「お前たちが苦労かけるからだよ」と返してはいるが、「シ・ラ・ガ」という言葉の響きには、やはり若干の抵抗を覚えてしまう。せめて「しろ毛」や「しろりん」など、もう少し柔らかい呼び方だったら、白髪ハラスメントも少しは和らぐのではないか、と思ったりもする。

歳を重ねると、予想していたこととは異なる変化がいくつも起きる。良いこともあれば、少し寂しいこともある。たとえば、走るのがしんどくなってきた。特にバスケットボールでは、機敏な動きや速攻で戻るプレーが以前より厳しい。トレーニング不足を痛感しているが、かつてのような俊敏な動きはもう難しい。試合の動画を確認すると、どこかもったりとした動きに見え、少し悲しくなる。それでも、プレーの質で勝負する方向にシフトしていこうと思う。ドンチッチのような「ゆるうま」プレーを目指すのも悪くない。

また、歳を重ねることで、こだわりが増え、頑固になってきたと感じる。若い頃はもっと柔軟に考え方を変えられていたように思う。それでも、こだわりがあることで、自分の本当に好きな人や、逆にあまり関わりたくない人がはっきりしてきた。それは悪いことではないのだと思う。

できないことが増える分、弱さや不器用さにじっくり向き合い、それを許せるようになってきた。若い頃のように自分に過剰な期待を抱かず、楽に生きることを選べるようになったのは、むしろ幸せだと感じる。できないことがあっても「まぁいいか」と受け入れる心の余裕が出てきた。これは自分自身に対してだけでなく、周囲の人たちに対してもそうである。弱さやできなさを受け入れることで、他人にも寛容になれるのだ。

一方で、「ここだけは譲れない」という自分の中の大切なラインも明確になっている。そこを大事にすることで、自分らしい生き方が形作られているように思う。

歳を重ねた今、無理をせず、ゆったりと愉快に過ごす毎日は、思った以上に豊かだと気づいた。それを知ることができたのは、歳を重ねたからこそだろう。

伝記『中村哲』から地球規模の問題を考えたい 個を超えて クラスで深める学びの文化づくりを

3年前から取り組んでみたいと思っていた教材がある。それは中村哲についてだ。当時、中村哲の映画『劇場版 荒野に希望の灯をともす』(2022年7月23日に公開)を観て、いつか子どもたちとこの題材をもとに議論し、考えを深め合う経験をしたいと強く思った。

http://kouya.ndn-news.co.jp

そして、この2学期、その願いが少しずつ実現しつつある。今、子どもたちとじっくりと『中村哲 (伝記を読もう 28)』を読みはじめ、哲の生い立ちから寄り道しながら話し合い、考え合う時間を過ごしている。

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お付き合いの「教えるべきこと」とは別に、僕自身は一体どんな教材を子どもたちと「選んで学び合いたい」経験をしたいのか。

この問いは、今の学校に赴任してからずっと心にあった。これまで「教えるべきこと」と細々と工夫を重ねながら向き合ってきた。僕自身は「この教材、本当に扱う必要があるのだろうか。でも年計にあることだし。学年でとりくんでいることだから。。。」と思いつつも、せめて子どもたちが主体的に学べるように、学び合いの手法やワークショップ形式の授業を取り入れてきた。

しかし、「何を教えたいのか」「どんな教材にふれて、どのような学びの経験を子どもたちにしてほしいのか」、さらには「あえて集団で(個別にゆずりわたすではなく)共有する学習経験として何を積み重ねておきたいのか」といった問いについて、明確な思想や主張を持つことはできていなかったように思う。

本校には「地球市民の時間」という総合的な学習の時間がある。これは、地球規模で人権、環境、平和について考える総合学習。これまで、自分の中には「遠い国の問題を扱うよりも、身近な課題を解決するほうが良いのではないか」という思いがあり、深くコミットすることができなかったのかもしれない。

しかし、昨今の人権問題や選挙事情に見られる民主主義の脆弱さ、さらには環境問題、そして対話をベースとした平和について考えることが、今やまったなしの何よりも重要な課題となっている。

子どもたちは、これらをどのタイミングで学び、どう向き合うべきなのか。こうしたテーマについて深く考えることは、教師として自分自身に課された責務だと感じている。

この夏、リエコとケンジの3人で「ギフトスクール」で概念探究の授業作りについて話し合っていたとき、長い間心に温めていたアイデアがふいに思い浮かんできた。

「ああ、自分はエチ先生のような実践をしたいと思っていたんだ。」

以前「数学者の時間」で「数学者とは何か」を探究していたときのこと。少し算数数学に飽きてしまい、たまたま国語教育の棚にあった本を手に取った。

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伊藤 氏貴 (著)『奇跡の教室 』( 小学館 2012)の本がきっかけだった。その授業では、3年間かけてたった1冊の文庫本『銀の匙』だけをじっくりと読み解きながら考えを深め合っている実践だった。

そんな風に、根底に「触れてほしい」という強い願いや思想が通底する教材を、いつか自分のクラスで文化として扱いたいという憧れがずっと心の中にあったんだとおもう。

この2学期、子どもたちとは寄り道をたくさんしながら考えを広げ、深めている。内村鑑三やフランクルの言葉に支えられた経験を出発点に、ハンセン病と山村医療の問題を学び、次は世界の水事情や井戸作りの話へと進んでいく。僕のお昼は、パキスタンの庶民食であるロティをいつも焼いて食べている。やってみたわかったが、小麦のそのもののうまさが味わえる。子どもたちも匂いに釣られ、一緒に食している。

子どもたちとともに考え、話し合い、学びを深める。

この経験が、彼らの中にどんな影響を残すのか。その過程を見守りながら、教師として何ができるのかを改めて問い続けていけるといいなぁと最近つくづくおもう。大日向小中の見学がずっと心にのこっているんだなぁ。

「ちがう」ことは「当たり前」の学校を見学した

先日、長野県にある「しなのイエナプランスクール大日向小学校・大日向中学校」を見学させてもらった。

そこには、かつて僕が夢見ていた子どもたちの姿があった。教室はどれも居心地が良く、静かで落ち着いた雰囲気の中、子ども一人ひとりが大切にされていた。

子どもたちは実に多様だった。人懐っこい子もいれば、マイペースな子もいる。それぞれの違いを尊重し合い、異なる個性が「当たり前」として受け入れられている空間だった。一日中参観させてもらい、いろんな子どもたちと話をする中で、子どもたちが自分たちの学校に自信を持っていることが伝わってきた。

僕自身はその場面に立ち会えなかったが、1・2年生の教室でサークル対話が行われたときのエピソードを同僚から聞いた。グループリーダー(先生)が席を外していた間、子どもたちは自分たちでウクレレを弾きながら歌い、自然と集まって語り合ったという。その場では、お互いの異なる意見や立場に耳を傾け、「ちがい」を大切にしようとする姿勢が1・2年生の姿に見られたそうだ。同僚の話を聞き、その光景を想像すると、とても心が温まる思いだった。

僕は以前、イエナプラン教育の20の原則に基づいてNPOを立ち上げ、活動に関わったことがある。その原則は「人間とは何か」「社会とは何か」「学校とは何か」という本質を問い直すもので、日本の学校もこうなればいいなと憧れていた。

大日向小中学校では、懐かしい先生方との再会も束の間、すぐに子どもたちが生活している空間を朝の会から見学させてもらった。サークル対話では、子どもたちが関心のある話題を中心に語り合い、しっとりとした雰囲気の中で一日が柔らかく始まる様子が印象的だった。

続いて見せてもらったのがブロックアワー。子どもたちは一人ひとり自分の課題に向き合い、格闘している姿が見られた。この学習時間では、1週間ごとに課題が提示され、それを自分で選んで形にしていく。この「1週間単位」という仕組みが、個々の子どもたちの違いを大きな差とすることなく進めるための絶妙な設計となっていた。

もちろん、ここまでの学校づくりが順調に進んだわけではなく、さまざまな試行錯誤を経て現在の形になったと、校長の久保さんが話されていた。久しぶりにお会いできて、本当に嬉しかった。

イエナプランの理念を大切にしながらも、「じゅうたんの部屋」など日本独自の取り組みも工夫されていて、常に改善を重ねながらより良い学校を目指している姿があった。その過程そのものが、「学校している」ということなのだと実感させられた。

午後の教員研修では「数学者の時間」の研修をひとつ担当させてもらった。「ぜひ取り組んでみたい」と声をかけてもらい、じっくり話をする機会もあった。あまりの楽しさに夢中になりすぎて、一緒に見学に行った仲間たちは僕を置いて先に帰ってしまったのも、今となっては良い思い出かな笑。

ブロックアワーの学習内容や教師たちの願い、そして子どもたちと共に描いていきたい教室の姿は、悩みながらも現在進行形で形づくられている。それだけに、「できる・できない」という能力主義的な学習観とは異なる「数学者の時間」のような実践が役立つ可能性を感じている。

近くイエナの中高学校も新設されるとのこと。その建学の精神にイエナプランの思想が根付いていることで、どんな困難な局面でも支えられ、きっと上手くいくのだろうと勝手に想像している。

それにしても、学校の枠組みを根本から捉え直すような実践ができていない現状を深く反省した。自分の実践の小ささを改めて痛感すると同時に、今回の見学がとても良い学びの機会となった。

マンガ『火の鳥』展へみんなで行こう!LAFT生命編 募集中!

LAFT特別企画・LAFT生命編 募集中!

生命とは何か? マンガ『火の鳥』展へみんなで行こう!手塚治虫と福岡伸一の生命観に迫る(全2回)

日本のマンガ史上最高傑作の一つ、手塚治虫の『火の鳥』。なんとその展覧会が来年3月に開催されます。

僕は小学生の頃に初めて『火の鳥』を読み、中学、高校、大学、そして社会人と、人生の節目ごとに繰り返し読み返してきました。この作品には、永遠の命を求めて葛藤する人間の姿がありのままに描かれています。僕にとって手塚治虫作品は欠かせない存在であり、『火の鳥』のテーマである「生命」がどのように表現されるのか、今から楽しみで仕方ありません。

手塚治虫『火の鳥』2巻より ★ちなみに僕はロビタをこよなく愛しています!

今回、展覧会をさらに魅力的にしてくれるのが、福岡伸一さんの解説です。超贅沢! 福岡ハカセは生命を「動的平衡」として捉え、その本質を深く語っています。著書『新版 動的平衡』では、「生命は機械ではなく、動的平衡」というメッセージが繰り返し語られています。

「つまり、生命とは機械ではない。そこには、機械とは全く違う。ダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つの、それを私は動的平衡と呼びたいのである。」(『新版 動的平衡』 P.261)

生命は時間の流れとともに変化し、エントロピー増大の法則に抗いながらも、それを受け入れ、再構築し続けるシステムであると福岡ハカセは語ります。このような「流れ」そのものが生命の本質だという視点が、手塚治虫が描いた『火の鳥』の世界観とどのように交差するのか楽しみなところです。

個々の生命がエゴイスティックでありながら、全体としては利他的なシステムであるという視点は、僕たちが「生きる」ことの意味を問い直すきっかけになるのではないでしょうか。はたして火の鳥とは生命を解き明かすシンボルとなりうるのでしょうか。このあたりを考えるのは楽しみでしかありません。

今回、LAFTの新企画としてマンガ『火の鳥』と『動的平衡』を読み比べ、実際に展覧会でその生命観がどのように描かれているのかを語り合う中動態的な場を設けます。この対話を通じて、「生命とは何か」「生きるとはどういうことか」を一緒に考えてみませんか?

オンライン参加はありませんので、ぜひ現地でご参加ください。

第1回:ブッククラブ「生命について語り合おう」

日時:1月19日(日)9:00〜13:00 場所:桐朋小学校

第2回:『火の鳥』展見学と懇親会 

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000056.000047885.html

日時:3月8日(土)15:00〜 場所:東京シティビュー(六本木ヒルズ森タワー52階) ※見学後、六本木で懇親会を予定しています。

参加費:どちらも無料 ※ただし、以下は各自でご負担ください:課題図書の購入費、『火の鳥』展の入館料、懇親会の飲食代

参加資格:課題図書を事前に読んだ教育関係者ならどなたでも参加可能です。

定員:コアメンバー12名(今回はオブザーバー参加はありません)

課題図書(必読書):手塚治虫『火の鳥』全14巻、福岡伸一『新版 動的平衡』 どれもおもしろいので冬休みの宿題にしてください。

参考図書(読める方はぜひ):福岡伸一『動的平衡2』『動的平衡3』ほか

内容

手塚治虫が描いた永遠の命を持つ『火の鳥』と、それに翻弄される生命の物語。そして、福岡伸一の『動的平衡』が語る、生命とは何か。これらを通して、「生命とは何か」「生きるとはどういうことか」を考え合います。学校現場において生命をどう捉え、どう教えるべきか、対話を通じて探求するのがLAFTの学びの場です。

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