今年は5年生。なかなかおもしろい子どもたちが集まっていて、活気もあり、クラスもようやく落ち着いてきたため、それぞれの課題がいろんなところで見え隠れしてくる時期になってきた。
すこぶるトラブルの毎日の中、それでも「おもしろく」やってられるのは、前の担任の先生からのプレゼントがあるから。
ある子が物をなくしてしまって泣いているとき、野球をやっておもうようにいかずに泣いているとき、そんなときにかけてくれる声があたたかい。
「いいよ、いいよ、悲しいときは泣いていいんだよ」
「悲しいよね。泣いたっていいんだよ」
おおー。僕も同じようなことを言うことはあるけど、子どもたちの口から自然と出てくるのは本当にありがたい。クラスがほっこりするし、受け止めてもらっている受容感につつまれる。
ここ数年、エリクソンの発達段階の第一期「(快感情も不快感情も)応答する関係」を学んでいる職場。
ここ数年、大河原ミイさんから「どんな感情もだしてよいこと」を学んでいる職場。
それらの学びを吸収して、子どもたちに真摯に向き合ってきてくれたこれまでの担任してくれた先生達があっての今。
もっとしつけをしてほしい、もっと集団行動を、なんて思っていた頃の残念な自分がなつかしい。子どもたちの中には、じっくりとその土台となる優しさが育っているんだなぁって思う。
だから、どんなトラブルがあっても、今の子どもたちと一緒にいてもなんだか心地がいい。これはこれまで担任してくれていた先生達からのプレゼントだと思う。
高学年を担任していると、如実にどんなとくに中学年を過ごしていたのかが、響いてくることが実感できることが多い。人は積み重ねてきたことが今をつくっている。
さて、今年もじっくりと進んでいこうとおもう。勉強が苦手な子がいて、放課後じっくりと一緒に考える時間をもてたのがとてもいい時間だった。算数は苦手な子ほど教え込まれてきた「やり方」に固執してしまい、その「やり方」にはめこまれてしまい、多様な見方や応用や活用ができなくなっている。結果、計算問題しかできない。
算数はやり方に終始せず、あの手この手で「概念(ミクロもマクロも)」を育ててあげることだなぁとしみじみ思う。子どもができないのは、教え方、関わり方、もってできる可能性があるってことだとしみじみ思った。
