「ちがう」ことは「当たり前」の学校を見学した

先日、長野県にある「しなのイエナプランスクール大日向小学校・大日向中学校」を見学させてもらった。

そこには、かつて僕が夢見ていた子どもたちの姿があった。教室はどれも居心地が良く、静かで落ち着いた雰囲気の中、子ども一人ひとりが大切にされていた。

子どもたちは実に多様だった。人懐っこい子もいれば、マイペースな子もいる。それぞれの違いを尊重し合い、異なる個性が「当たり前」として受け入れられている空間だった。一日中参観させてもらい、いろんな子どもたちと話をする中で、子どもたちが自分たちの学校に自信を持っていることが伝わってきた。

僕自身はその場面に立ち会えなかったが、1・2年生の教室でサークル対話が行われたときのエピソードを同僚から聞いた。グループリーダー(先生)が席を外していた間、子どもたちは自分たちでウクレレを弾きながら歌い、自然と集まって語り合ったという。その場では、お互いの異なる意見や立場に耳を傾け、「ちがい」を大切にしようとする姿勢が1・2年生の姿に見られたそうだ。同僚の話を聞き、その光景を想像すると、とても心が温まる思いだった。

僕は以前、イエナプラン教育の20の原則に基づいてNPOを立ち上げ、活動に関わったことがある。その原則は「人間とは何か」「社会とは何か」「学校とは何か」という本質を問い直すもので、日本の学校もこうなればいいなと憧れていた。

大日向小中学校では、懐かしい先生方との再会も束の間、すぐに子どもたちが生活している空間を朝の会から見学させてもらった。サークル対話では、子どもたちが関心のある話題を中心に語り合い、しっとりとした雰囲気の中で一日が柔らかく始まる様子が印象的だった。

続いて見せてもらったのがブロックアワー。子どもたちは一人ひとり自分の課題に向き合い、格闘している姿が見られた。この学習時間では、1週間ごとに課題が提示され、それを自分で選んで形にしていく。この「1週間単位」という仕組みが、個々の子どもたちの違いを大きな差とすることなく進めるための絶妙な設計となっていた。

もちろん、ここまでの学校づくりが順調に進んだわけではなく、さまざまな試行錯誤を経て現在の形になったと、校長の久保さんが話されていた。久しぶりにお会いできて、本当に嬉しかった。

イエナプランの理念を大切にしながらも、「じゅうたんの部屋」など日本独自の取り組みも工夫されていて、常に改善を重ねながらより良い学校を目指している姿があった。その過程そのものが、「学校している」ということなのだと実感させられた。

午後の教員研修では「数学者の時間」の研修をひとつ担当させてもらった。「ぜひ取り組んでみたい」と声をかけてもらい、じっくり話をする機会もあった。あまりの楽しさに夢中になりすぎて、一緒に見学に行った仲間たちは僕を置いて先に帰ってしまったのも、今となっては良い思い出かな笑。

ブロックアワーの学習内容や教師たちの願い、そして子どもたちと共に描いていきたい教室の姿は、悩みながらも現在進行形で形づくられている。それだけに、「できる・できない」という能力主義的な学習観とは異なる「数学者の時間」のような実践が役立つ可能性を感じている。

近くイエナの中高学校も新設されるとのこと。その建学の精神にイエナプランの思想が根付いていることで、どんな困難な局面でも支えられ、きっと上手くいくのだろうと勝手に想像している。

それにしても、学校の枠組みを根本から捉え直すような実践ができていない現状を深く反省した。自分の実践の小ささを改めて痛感すると同時に、今回の見学がとても良い学びの機会となった。

マンガ『火の鳥』展へみんなで行こう!LAFT生命編 募集中!

LAFT特別企画・LAFT生命編 募集中!

生命とは何か? マンガ『火の鳥』展へみんなで行こう!手塚治虫と福岡伸一の生命観に迫る(全2回)

日本のマンガ史上最高傑作の一つ、手塚治虫の『火の鳥』。なんとその展覧会が来年3月に開催されます。

僕は小学生の頃に初めて『火の鳥』を読み、中学、高校、大学、そして社会人と、人生の節目ごとに繰り返し読み返してきました。この作品には、永遠の命を求めて葛藤する人間の姿がありのままに描かれています。僕にとって手塚治虫作品は欠かせない存在であり、『火の鳥』のテーマである「生命」がどのように表現されるのか、今から楽しみで仕方ありません。

手塚治虫『火の鳥』2巻より ★ちなみに僕はロビタをこよなく愛しています!

今回、展覧会をさらに魅力的にしてくれるのが、福岡伸一さんの解説です。超贅沢! 福岡ハカセは生命を「動的平衡」として捉え、その本質を深く語っています。著書『新版 動的平衡』では、「生命は機械ではなく、動的平衡」というメッセージが繰り返し語られています。

「つまり、生命とは機械ではない。そこには、機械とは全く違う。ダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つの、それを私は動的平衡と呼びたいのである。」(『新版 動的平衡』 P.261)

生命は時間の流れとともに変化し、エントロピー増大の法則に抗いながらも、それを受け入れ、再構築し続けるシステムであると福岡ハカセは語ります。このような「流れ」そのものが生命の本質だという視点が、手塚治虫が描いた『火の鳥』の世界観とどのように交差するのか楽しみなところです。

個々の生命がエゴイスティックでありながら、全体としては利他的なシステムであるという視点は、僕たちが「生きる」ことの意味を問い直すきっかけになるのではないでしょうか。はたして火の鳥とは生命を解き明かすシンボルとなりうるのでしょうか。このあたりを考えるのは楽しみでしかありません。

今回、LAFTの新企画としてマンガ『火の鳥』と『動的平衡』を読み比べ、実際に展覧会でその生命観がどのように描かれているのかを語り合う中動態的な場を設けます。この対話を通じて、「生命とは何か」「生きるとはどういうことか」を一緒に考えてみませんか?

オンライン参加はありませんので、ぜひ現地でご参加ください。

第1回:ブッククラブ「生命について語り合おう」

日時:1月19日(日)9:00〜13:00 場所:桐朋小学校

第2回:『火の鳥』展見学と懇親会 

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000056.000047885.html

日時:3月8日(土)15:00〜 場所:東京シティビュー(六本木ヒルズ森タワー52階) ※見学後、六本木で懇親会を予定しています。

参加費:どちらも無料 ※ただし、以下は各自でご負担ください:課題図書の購入費、『火の鳥』展の入館料、懇親会の飲食代

参加資格:課題図書を事前に読んだ教育関係者ならどなたでも参加可能です。

定員:コアメンバー12名(今回はオブザーバー参加はありません)

課題図書(必読書):手塚治虫『火の鳥』全14巻、福岡伸一『新版 動的平衡』 どれもおもしろいので冬休みの宿題にしてください。

参考図書(読める方はぜひ):福岡伸一『動的平衡2』『動的平衡3』ほか

内容

手塚治虫が描いた永遠の命を持つ『火の鳥』と、それに翻弄される生命の物語。そして、福岡伸一の『動的平衡』が語る、生命とは何か。これらを通して、「生命とは何か」「生きるとはどういうことか」を考え合います。学校現場において生命をどう捉え、どう教えるべきか、対話を通じて探求するのがLAFTの学びの場です。

お問い合わせ

コメント、またはメッセンジャーにてお知らせください。Facebookグループ「LAFT生命」に招待します。また、何か質問がありましたらお気軽にお問い合わせください。

「数学者の時間」は資質・能力を育てる

神奈川県の鵠沼にある湘南学園小学校で開催された関東地区私立小学校教員研修会にて、「数学者の時間」について算数部門で実践報告をしてきた。

この研修会には、東京都の私学を除く神奈川県、山梨県、長野県など広範囲から参加者が集まり、特に算数に興味・関心のある先生方が多く集まっていた。僕としては、「数学者の時間」が算数教育に携わる先生たちにどのように伝わり、どのように評価されるのかがずっと気がかりであった。

研修はあっという間の3時間で、その後の質疑応答でも多様な質問が寄せられ、深く考える機会をもらえた。ある先生からは「日々の算数授業で資質・能力を高めようとしても難しいが、週に1回『数学者の時間』として取り組むことで、考える力を通じて資質・能力を育てることができるのではないか」というフィードバックを直接いただき、非常に励まされた。

「数学者の時間」の実践は、既存の算数・数学教育に対して新たな課題を投げかける側面があり(新しい実践には往々にしてそうした側面があるものだが)、受け入れられるか不安もあった。しかし、「なるほど、少しは文科省の役に立つ実践になっているのか」と前向きに捉えることができた。

また、子どもたちの実態を見ても、「数学者の時間」を本当に楽しんでいる子どもが多い。しかし一方で「考えることを楽しめない子どもをどう支援すべきか」という質問をいただき、大きな課題も浮かび上がってきた。このあたりも教室の姿をもとに、取り組みを描き出せるといい。

この時期は入試、研修会、LAFT、バスケの練習や観戦、『ゴースト・オブ・ツシマ』などに追われ、忙しい日々を過ごしていたため、なかなかじっくりと振り返る時間を取ることができなかったが、一区切りがついたので、年末に向けて少しゆったりと過ごせるといいなと思う。

最近は毎日8時間の睡眠を心がけているので、疲労やストレスにも強く、基本的に元気でしかない(笑)。

中動態でかわる、子どもの理解やとらえ

先日、「これって、中動態じゃないですか?」「幼稚園の実践をぜひ読んでほしい」と勧められ、その記録を読ませてもらった。それは保護者と共有するためのもので、ある幼児が雲底で挑戦したい技を見つけ、それがいつの間にか周りにいた子どもたちにも浸透していった実践記録だった。やがて「私とみんな」の境目が失われ、ふとした瞬間にまた「雲底をしている私」に戻る場面が描かれていた。その文体は非常に柔らかく、子どもの姿を鮮やかに捉えていて、読むだけで清々しい気持ちになれた。

中動態を学ぶことで、これまで見てきた子どもの姿に、これまでには見えなかった、または何となく見えてはいたけれど、うまく言語化できずに腹落ちしていなかったことに、たびたび出くわすようになれた。これは幼稚園でのいきいきとした遊びの実践に限らず、教室で日々起こる問題の数々についても、同様に見落としていた部分が見えるようになってきたと感じている。

教室でのトラブルもその一つである。子どもたちは日々、さまざまな失敗やトラブルを起こすが、これも大切な学びの場面である。叱られたり、考え合ったりする中で学んでいくことではあるが、決して問題を封じ込めてゼロにするべきことではない。

友だちとケンカしたり、物をなくしたり、忘れ物が多かったりといったことは、多くの場合、その子の責任として教え諭されたり指導される。でも、「中動態メガネ」の視点で見ると、その問題をその子一人にだけ背負わせるべきではないケースも多く見受けられる。教室環境や友だち関係、教師との関係、さらには家庭の影響など、さまざまな要因が絡み合って今の問題が生じていることがある。教育現場にいると、こうした多面的に見なければならない問題があることを痛感する。

確かに、こういった問題は、その子一人の責任だけでなく、関わる全ての人が「ゆるやかな・弱い責任」を持っていると気づかされる。だからこそ、集団の中で、「自分にもできることがある」「いっしょに改善できることがある」と一人一人が感じられるような共同の場を築くことが大切だと考えられるようになってくる。

中動態を学ぶことで、子どもが遊んでいる時や問題行動を起こした時の「捉え方や理解の仕方」そのものが変わってくるのをしみじみと感じている。

中動態について、『中動態の世界』の著者である國分功一郎さんとともに、今の教育現場を見つめ直す学びの場が開催されます。今日や明日にすぐ役立つものではないかもしれませんが、子どもの見方や教育の捉え方をじっくりと醸成する「中動態の視点」を、一緒に学んでみませんか。現在、参加者募集中です!

https://www.kokuchpro.com/event/4317e3efcba7240ec09eef46a8cc0775/

教師をこえていく子ども

新学期が始まり、慌ただしく1ヵ月間が過ぎてしまった。運動会も無事に終わり、この二日間は久しぶりに家でゆっくり過ごすことができた。これまで気になっていたことをやったり、家事をやったり、日々のメンテナンスをしたり、少しずつ自分を取り戻せるような丁寧な時間が戻ってきた。このペースでじっくりと2学期の歩みをすすめられるといいなぁ。

以前、担任した子どもから連絡をもらった。子どもといってもその子はもう来年から社会人。教員採用試験に合格したので、教壇に立つとのこと。

今の教育現場は大変なこともきっと知っているだろうし、その中で「あえて」学校の先生になってくれることは本当に嬉しい。どんな先生になるのかとても楽しみでしかない。

その子のことを思い出してみると自主学習もしっかりやっていたしっかりものの女の子だった。多分ちょうど自主学習ノートの本が出版したときの頃の子どもたちだったと思うから、もう12年以上も前のことだ。

久しぶりに、その当時の子どもたちのことを思い出してみた。いくつか通信もでてきたけれど、あまりにも恥ずかしすぎてヤバい! よくあけっぴろげに、思ったままに通信を書いていたことか! 読むに耐えず閉じてしまった笑。

けれども、等身大で子どもたちと関わっていたあの頃の自分を思い出してきて、なんだかやっぱりこの仕事っていい仕事だなって、大事なことを思い出させてもらった。

僕は今、どうして先生しているんだろう?

当時は子どもが好きで、管理職にバレないように、楽しいことばかり考えていた。勉強とかそっちのけだった。よく屋上でこっそりと遊んだ。屋上という場所は格好の遊び場だった。みんなで座布団もって昼寝もしたり、スイカ割りもしたり、雪合戦もした。楽しかったな。

あの頃に比べるとなんと今はマジメでツマラナイ先生になってしまっていることか。。。

とはいうものの、子どもたちには、どんどん伸びていってほしいなと思っている。教師としての自分を軽々と越えていってほしい。教師をやっていて、これにまさることはないなぁと思う。越えていくタイミングは人それぞれだけれども、1年の時もあるし、それが12年経ってからのこともあるから、この先生って仕事はおもしろいなぁと思ってしまう。

SNSのおかげもあってか、「先生になりました」という連絡を毎年もらえるようになった。何か、僕が何か影響を与えたことはないと思っている。でも、先生って仕事は悪い仕事じゃないんだということが伝わってると思うと、まんざら悪い先生でもなさそうかな。

はてはて。あと何年、こうやって子どもたちと一緒に学校していられるのかなぁとふと思う。

最近、DELLの27インチモニターを買ったら、作業効率爆上がりになって、ますますモニター時間が増えてしまいました笑。ガジェット大スキ。

学びの本質は「開かれたからだ」にある

そもそも「よっこらしょ」って、気持ちを入れ直さないと始まらない、学びってなんだろう? 

やってみたいなぁ、知りたいなぁ、もっと考えたいなぁ、などと、何か「からだ」からの声を聞きながら自然に始められる学び、そんな学びが本来の姿ではないだろうか。

一つ、そのヒントは子どもの遊びの中にあるんじゃないかなぁ。

小さな子どもたちの遊びは、遊びそのものに没頭している。何かを考えてから動くというよりも、その遊び、活動自体に夢中になり、その没入感の中でその子らしさが現れてくる。さらに「いいこと思いついた!」に巻き込まれるかのように、遊びが変化していく。これはいわゆる「命の響き合い」として表現される。

多くの学びは知的なもの、つまりメタ認知的な思考や操作を要求される。しかし、そういった「あたま」を使うこと、それだけで本当に十分なのだろうか?

僕たちは、近代的な思考様式を学ぶことで、何か大切な「身体性」を失っているのではないだろうか。このことは中動態を学ぶことから大きく気付かされることばかりだ。こういった疑問をもてるようになったことは、中動態を理解しようとする試みの中で、深く考えさせられる利点だと思う。

昨年度末の数学者の時間は「物を使って考える」というテーマにこだわってみた。やはり、具体的な物や半具体物を使い、それを操作することで人の思考は活発になっていく。

ここから考えをさらに広げてみると、人が「考える」という行動に移るのは、「考えたくなるから考える」のだと思う。

では、どうすれば自然と考えたくなるのだろうか? 

その答えの一つは「からだを開く」ことにあると思う。逆説的ではあるけど、からだを開くためにはまずしっかりと基礎基本を学ぶ必要がある。学びを通じて土台としての基礎を身につけ、その上で一度それを手放すこと。

つまり学んだことにとらわれすぎないことが大切だろう。アンラーンすることで、初めて何か新しいものが立ち上がってくる。そして、その瞬間には開かれたからだが必ず存在している。この構造はまっくもって中動態のようなものだ。

学びと身体はつながっている。この考えは、多くの本で語られているし、禅思想の中でも強調されている。

今、遊びや学びについて少しずつ理解できるようになってきた。単なる未来予想から差分して必要な力を身に付けるような浅薄な学力観にならないようにしたい。

今、子ども自身を主語にして考えること。

そして、人が学ぶことや遊ぶこと、その本質とは何かを考えていきたい。

西平直『稽古の思想』

矢野勇樹さんの論文があまりにもいいと書いたら、連絡をいただけた。そのとき、中動態という言葉を使ってはいないけれども、中動態のプロセスを考えていく上で参考になる本だと紹介いただいた。

今週、丁寧に読み進めてきた。中動態について理解しようと思って読み始めた本だが、それ以上に深い知見が描かれていた。今の自分の持っている思考の枠組みが溶かされていくような感覚になる。この本は一読をお勧めする。世阿弥の稽古の考えをベースに、これほど難しい概念をわかりやすく述べた文章は他に読んだことがない。

『遊びは、授かった命をいきいきと輝かすこと』

次の10年間の学校ビジョンを作成するため、夏の研修で話し合った案をもとに整理し、広報用のパンフレットにまとめる作業を進めていた。僕は、この話し合いのプロセス自体がとても重要だと感じている。なぜなら、職員全員で「どんな学校にしていきたいか?」を話し合い、共通ビジョンを合意してつくり上げることは、学校づくりには欠かせない仕事だからだ。

今回の話し合いの中で、「学び、遊び、自治の過程を大事にする」という一文を提案した。遊びを通して友だちとケンカしたり、うまくいかない過程そのものが、子どもたちにとって大切な経験になるのだと夏の研修で意見をもらっていたので、「学び、遊び、自治の過程を大事にする」という表現を並列にすることにした。

しかし、校長さんが「遊びって過程じゃないんじゃないかな」と意見をくれた。その時はピンとこなかったが、よく考えてみると、学びは結果に至るまでのプロセスが大事であるとよく言われるが、遊びは結果を求めるものではなく、遊ぶそのものに夢中になることが本質だと気づかされた。遊びには、時間の感覚を忘れ、その瞬間に没入する力があるものね。

3時間半の会議はあっという間に過ぎ、言葉の背景にある願いや思想を語り合う時間の価値を感じることとなった。

その後、校長さんからも「遊びは、授かった命をいきいきと輝かすことだという考えをもっています」というメールが届き、さらにその考えを深める、じわっている。

学校の歴史を振り返ると、昔は「無だ!」と、教育目標すらなかったという話も聞き、驚かされたが、それもまたこの学校らしい。今後、変わりゆく世界に対応しながら、学校目標を時代に合わせて手直ししていくことも含め、素敵な学校づくりがまだまだ続いていくのだと感じている。

○○メソッドの前に、考えたい教材の価値 あり方とやり方を捉え直す

今日の午後は、比較的ゆったりと学級事務や校務に時間を割くことができ、同僚と興味深い話をする機会を得た。

教育界では「新しいメソッド」への関心と実践が進んでいるが、重要なのは、方法論に先立って「どのような教材を扱うか」である。子どもたちに何を伝えたいのか、扱う教材やテーマがなければ、方法論は空虚なものになるのではないか。

なるほどと首肯すると同時に、自分の実践ではどのようなテーマや教材を子どもたちと共有すべきか、自問してしまう。

この学校独自の文化を大切にしながら、それを温故知新の精神で時代に合わせて変えていくとは、何を意味するんだろう。

最近は算数に関連することが多いが、僕は「良問」と呼ばれる教材を通じて、子どもたちに算数世界の幅を拡げ、考える楽しさの共通の体験したいと考えている。そのために「数学者の時間」という実践方法を導入しているが、メソッドとは言えるほど一般化できる訳でもなく、そこにはやはり、どういう算数でありたいのかが埋め込まれているつもり。

あり方とやり方は、やはり密接に繋がっているものである。

手元には西村佳哲著『かかわり方のまなび方』という懐かしい本があり、文庫版で改めて購入した。この本は、あり方とやり方について考えるための補助線を与えてくれたものである。

“ある成果を形にするには、それを実現するための技術や知識がいる。しかし技術や知識は何を持って良しとするのかといった考え方や価値観があることで初めて生きる。さらにその基盤として、物事に対する態度や姿勢、別の言い方をすれば、あり方や存在がある。”(P.34)

“僕は上側の技術や知識については教えることにあまり抵抗感を覚えないようだった。教えやすくもある。しかし考え方や価値観になるとブレーキがかかる。それは外から与えられるべきものではないと感じているようだ。あり方や存在に至っては何かを言わんやである。”(P.35)

最近は新しいやり方やメソッドを耳にする機会が増え、研修に参加することも多くなっている。昨日もラフトで中動態について考え、その授業設計の実践化にまで話が及んだ。

このようなメソッド化によって失われこぼれてしまいがちな教育哲学や思想を大切にし、自分らしさや学校らしさが反映されたあり方が通底する教材を通じて、方法を学ぶ仕組みを築いていく必要があるんじゃないかな。

中動態から見えてくる子どもの遊び 主体性よりも関係性と文脈の力

明日は久しぶりのLAFT。今期のテーマは中動態で第3回目。僕は中動態という視点を得たことで、ものの見方が大きく変わったと感じている。特に「主体性」といった非認知能力が個人に備わっているという考え方が柔軟になった。「やる気のスイッチ」というものは、自分で入れるものではなく、ましてや他者がオンにしてくれるものでもない。むしろ、自然にスイッチが「入っちゃう」ものだと理解するようになった。

この中動態への理解に関連して、個人の中に能力が埋め込まれていて、それを伸ばすという教育観だけではバランスが悪いことも分かってきた。人の能力は個人の中に完全に備わっているものではなく、文脈に埋め込まれていて、流動的で場に依存するものである。そのため、現在の教育が一人ひとりの個別能力を伸ばすことに重点を置いていることに対し、違和感を抱けるようにもなってきた。

人が成長し、学び、知識を得る場面は、より社会的で協働的なものであり、単に情報を伝達したりダウンロードしたりするだけではない。人が成長し、生きていくということは、共に集まり、つながり、考え合い、より良いものに変えていこうとする行為そのものである。協働を通して能力を発揮し、より良いアイディアを見つけ、知的に活動することこそが要諦だと考えられるようになってきた。

中動態とはなんなのだろうか。

2016年に國分功一郎の『中動態の世界』によって広く知られるようになった。私がこの言葉を知ったのは、幼稚園の研究に参加したときである。中動態は、古代インド・ヨーロッパ語族(サンスクリット語や古代ギリシャ語)に見られるもので、能動でも受動でもない、第三の態である。これは、私を「場」として立ち上がるものを示す概念であり、「内と外」という構造を持っている。

このような考え方を持つ中で、子どもの「遊び」をどのように捉え、理解し、仮説を立てるかを学ぶ際には、中動態という概念が欠かせないと感じている。私たちは普段、能動と受動という二つの視点から物事を捉えているが、これは近代において発展したものであり、あまりにも当たり前になりすぎて、自覚することが難しい。しかし、中動態というもう一つの視点を知ることで、能動や受動だけでは見えなかった新たな視点が広がってくることが実感できる。

例えば、保育の実践において、子どもの遊びは能力育成に欠かせないとされているが、これを個人の問題として捉えることには限界がある。「いいことを思いついた!」という瞬間をどのように解釈するのかという問題に直面した時、能動的に「遊ぼう!」と思って遊んでいるわけではなく、また受動的に「遊ばされている」わけでもない。こうした能動と受動の対立構造では、子どもの遊びを正しく捉えることができない。ここで必要となるのが中動態の視点である。

子どもが「いいことを思いついた!」と言う場面を考えてみると、これは私が意図的に思いつくのではなく、その場にいる友だちが木に登ってみる姿、そこから飛び降りようとする姿などに触発され、私を「場」として、私の内側から自然に「いいこと」が思いつく状態を表している。その結果、私はその場に影響を受け、思いついたことを実行したくなる。遊びを中動態的な見方で捉えることで子どもの世界の豊かさがより見えてくるようになってくるのである。

この考え方については、佐伯 胖 (著, 編集), 矢野 勇樹 (著), 久保 健太 (著), 岩田 恵子 (著), 関山 隆一 (著)『子どもの遊びを考える: 「いいこと思いついた!」から見えてくること』の第1章から第4章で矢野が詳しく論じられており、とても参考になる。いつか対話してみたい人のひとりである。

近代の視点では、能動と受動、遊びの主体性や受動性について捉えるが、これだけでは不十分である。意思とは、単なる責任や意図の問題だけではなく、私たちが生活する文脈と密接に関連している。遊びは能動的でも受動的でもなく、中動的な行為であると考えるのが適切であることが分かってくる。

現在、私はこの中動態の視点を活かして、教室の中で「つい、いいアイディアを思いついちゃう」場を作り出すための条件についてLAFTで考えあっている。しかし、これは単純に材料を揃えればよいものではなく、絵画のようにキャンバスと絵の具があっても、完成する作品が異なるように、その場の特性によって大きく影響されてしまう。中動態的な授業は、その集団の場に大きく影響されるものであり、ワークショップ形式の授業と非常に親和性が高く、「いいこと思いついちゃう」場となりやすいと考えている。

明日、LAFTで具体的な保育場面における中動態についてブッククラブを開催し、語り合う予定。教育的な理論や哲学、思想に偏ることなく、実践する力を参加者のみなさんと対話を通して伸ばしていきたいと思っている。

プロジェクト・アドベンチャー研修で学んだSELは算数そのもの

先週、久しぶりのPA研修に参加できた。アメリカのPA, Inc.からトレーナーのローラを呼んでのSEL(Social Emosional Learning)研修だった。声をかけてくれたすずめありがとう。控えめに言って最高の研修で、今の算数の本質について考えている僕にとって最高のタイミングだった。

参加者は顔なじみのアドベンチャー教育「いつメン」が集まった。そして、久しぶりのメンバーにも会えた。なんだかPAJの同窓会をしているみたいで嬉しかった。

これまでSELとはきいたことがあるけど、実際に経験して学んだことがなかったので楽しみだった。

SELとは

イェール大学にある感情知能センター(YCEI)は、感情知能スキルの開発を支援するための研究とトレーニングを行っている。特に学校向けには、RULERアプローチという社会的・感情的学習(SEL)プログラムを提供し、子どもたちや教師、リーダーの感情スキルの向上を図り、学校、家庭、職場においてポジティブな感情環境を促進し、健康で公正なコミュニティの構築を支援することに資している。

https://medicine.yale.edu/childstudy/services/community-and-schools-programs/center-for-emotional-intelligence/

CASEL(Collaborative for Academic, Social, and Emotional Learning)のHPをのぞいてみると、さらにSELに詳しい。

社会的・感情的学習(SEL)を教育の基本的要素とすることを目指し、幼稚園から高校までの教育において、SELを効果的に実施するための研究に基づいた実践やリソースを提供してくれている。

SELは、自己認識、自己管理、社会的気づき、対人関係スキル、責任ある意志決定など5領域の育成を目指しており、これらのスキルが子どもの成績や生涯の成功に直接結びつくとされているようだ。

さすがPAJの研修。いつものようにただの「お話きかせ」で終始せず、全てアクティビティ体験を通してそれぞれの5領域の要素について深く振り返られる研修設計となっていた。このデザイン力がまたていねいだった。そして、言葉だけに頼ることなく、ジェスチャーがあったりもして、その方法も多様だった。つい、手軽な言語の振り返りに行ってしまいがちなので、よい気づきをなった。

その中の一つに【感情の金魚鉢】という感情の語彙を豊かにするアクティビティがあった。簡単に言えば、その言葉をジェスチャーであてっこする。これがほんとに笑えておもしろい。同じ言葉でもビミョーな違いがあって、それを表現するって案外むずかしい。

「平然とした」「くつろいでいる」

これいっしょでしょ!!

このビミョーな違いをジェスチャーで表すって、もう神の領域笑。でも、ファシリテーターの進め方で意外にも意思疎通できてしまうのが興味深かった。

このムードメーターと呼ばれる感情語を表して80語を子どもたちと体験を通して集めていけるといいなと思う。感情を表現すること、感情をみつけること、自分の感情に気がつくこと、こういった感情を大事にするような集団文化ができるといいなと心から思った。

算数の良問をといているときは、感情との向き合い方が特に重要となる。しかもその感情は、「わからない」「もう無理」「やめたい」などとネガティブ感情のオンパレードだ。しかし、この感情こそが、ひらめきの種となるのが算数の真骨頂。

これまで算数の本質とは、冷静に論理的に思考することだと思われてきた。でもそれはちょっとちがっている。そればかりではなかった。

算数・数学の本当の本質は、自分に気付くことだ。自分の考えた道筋や予想、ひらめき、そしてそれを頭の中で駆け巡る感情への気づき。

これはSELでいうまさに「Self awerness(自己認識)」のことだ。

数学者の時間ではネガティブなら「うーん」、ポジティブなら「あぁ!」とメモするようにノートづくりをしてきていた。これからは、もう少し、感情言葉に目を向けながら自分の気持ちを算数授業においてこそ、表現していけるといい。

今、僕はこの自分への気づきこそ、学びに重要な要素だと考えられるようになった。だからこのタイミングでSELの研修に参加できたことは、自分の考えを組み立てる上でとても大事な土台となってくれた貴重な学びだった。

さて、積ん読本だったSELの吉田本『感情と社会性を育む学び(SEL): 子どもの、今と将来が変わる』『SELを成功に導くための五つの要素: 先生と生徒のためのアクティビティー集』『学びは、すべてSEL: 教科指導のなかで育む感情と社会性』を読もうと思うよ。