学級づくり

京都研修旅行から帰宅

先ほど京都への研修旅行から帰宅した。金曜日から土曜にかけてこの二日間はいつもとちがった視点で、色々考えさせられるきっかけとなった。それもやっぱり現地に行ってみることややってみることからの気づきだ。

一日授業見学の機会をくださった京都大学付属桃山小の西村さん、京都女子大での補講のお手伝いでみっちりPAをさせてくれた長瀬さん、そして、京都の夜にSNSの呼びかけで集まってくれた仲間たち、そして同じ職場から一緒に見学にいってくれた宇宙、本当にありがとうございました。

教員として学びに出かけられる機会を「学校が」ちゃんと権利として確保してくれる環境に本当にありがたいと思った。学校をよくしていく一番は、先生たちの異文化間交流。これからも研修旅行、自分の授業公開を続けていけるといいなと改めて思った。

またしばらくこの二日間のことをゆっくりふりかえりながら考えたことを言葉にしていこうと思う。けどひとまず疲れたので早めに寝ることに。

明日はLAFT中動態。本について話したいことを話し合う豊かな時間となるはず。そして、中動態への理解が一歩進んでいく予感。

やっぱり、僕は人と学び合う場にいる、まぜてもらうのが好きなんだと。来月は仙台、そして名古屋、再来月は沖縄。今度は僕の番だ。今一番、言いたいことや考えたいことを集まった人達と一緒に考えることを大切にしていきたい。

あー、楽しかった。

そしてうまかった。久しぶりの給食に学食からのラーメン。最高でした。

子ども時代の神様ごっこ

6時間目は団活、いわゆるクラブ活動だった。体育館で子どもたちとバスケをし、そのまま放課後も一緒に遊んでいた。クラスの子どもと6年生数人が呼びに来てくれた。

「もう、さがしたんだから。はいこれ」

手渡してくれたのは焼きたてのクッキー。今日のパティシエ団でつくったようで、お裾分けを持ってきてくれたようだった。教室行ってもいないし、職員室行ってもいない、体育館までわざわざお皿を持ってきてくれたようだ。ありがたい。「お皿は自分で洗って返しておいてよ」だって。

その場に一つほおばると、「いいなー、イガせんだけずるーい」と群がる少年たち。「いいよ。一個あげるよ」嬉しそうにみんなでわけわけした。かみ応えのあるクッキーでうまかった。今日は、どの子も団活を楽しんでいる様子だった。

すると、もう二人、今度は6年生が呼びに来てくれた。

「イガせん、ねこがみ様に神殿が完成したんだ。見に来ない?」

なになに。僕が勝手に数年前からしぜん広場にこっそりまつっているねこがみ様に、クラフト団の子どもたちがお堂を作ってくれたようだ。バスケを切り上げ、さっそくしぜん広場へ赴いた。

「お参りにはちゃんとした儀式があるんだ」と、神妙な顔持ちで二礼二拝ににたような作法に、後ずさりして礼をするなんとも独特な信仰作法が生まれているようだ。その二人はいたって真面目にやっていたので、僕も真面目にならってあとずさりの礼をした。

子どもたちはこういう「神様」や「妖怪」といった神聖なたぐいは好きだ。子どもの頃は、自分のみの周りにはこういうアミニズム的な精霊が自分を守ってくれたり、戒めるために睨みをきかしているような気持ちをもっている。

この6年生たちがまだ2年生だった頃、僕は一緒にしぜん広場にネコの焼き物を勝手においてお祈りを始めた。それが「ねこがみ様」信仰のそもそものきっかけだ。それは時に、学校の広報にも「しぜん広場にはねこがみ様がいるよ」と記事にしてもらえるほど市民権を得ている。

以来、ずっとしぜん広場の片隅にひっそりとねこがみ様はまつられていて、僕も今年の子どもたちと一緒に定期的にお参りし、信者をふやしそうとしている笑。

そのねこがみ様をまだ覚えていたのか、今でもあつい信仰をもっているのか、神殿という名のお堂を作ってくれた。黒板マグネットを利用した観音開きになっていた。嬉しくて、何度か扉をパタパタ開け閉めしてみると、なんとも幸せな気分になった。

こういうどうでもいいような「あそび」に夢中になったり、こういう「あそび」をさらに真面目に拡げようとしている6年生はおもしろいなと思う。いい子どもたちに育っている。

これでまた来週のしぜん広場の時間が楽しみだ。お参りにはちゃんとした作法があることを土着の文化として教えてやらねば。

毎週、席替えしている

今年は毎週月曜日、席替えをくじ引きしている。子どもたちはそれを楽しみにしている様子で、気持ちを日記で教えてくれる。

昨年度末、アンディと久しぶりに会ったとき、横浜の先生とも一緒に飲んだ。おもしろいことに、その先生は「毎日」クラスで席替えをしている話を教えてくれた。毎日!驚異的すぎた。久しぶりに教師塾のにおいがした。

子どもたちの関係を意図的に混ぜること。学期始めにはとても大切なことだ。一方で不安もある中、安心できる関係もつくってあげたい。

席替えにかかる時間と関係の安定性も考え、毎日行わずに毎週1回に提案してみた。昨年度のクラスでは月1回だったり、学期に1回だったりしたそうで色々不満の声も漏れ聞こえてきた。

なんでこんなに席替えって子どもたちは驚異的な関心を示すんだろうね。

席替えだけでは、安定した関係性はもてないので、さらにはPAで「楽しく」かかわる経験をふやしていこうと考え、取り組んでいる。だから書名どおりに『プロジェクト・アドベンチャーでつくるとっても楽しいクラス』になっているかも笑。なつかしい。だれか買って。いい本だよ。本のとおりには今はやっていないけど、いまの学級づくりのいろんな根っこの部分がつめこまれている。

すでに合宿の準備も始まっている。今年は二泊三日だが、毎年誰と同じ部屋になるのか、だれと同じグループになるのか、好きな人は一緒になるのか、本当に好きでたまらない人とは、、、など子どもたちの関心も一番デットヒートするのが宿泊行事である。

そして、僕はこの席替え問題に解決策をもっている。

日常の席替えをくじ引きにし、一緒になりたい人アンケート6名を書いてもらい、集まったアンケートをもとに僕がグループをつくってあげる。子どもたちに実行委員をまかせるときもある。だいたい2〜3回ほど、提案、修正のやりとりがあって落ち着く。

といってもこの「くじ引き」に決めるこがとても大事で、「自由」とか必ず言い出す子がいるので、自由にやってその自由になれなかった場合のリスクを考えて、どういう席替えが一番だれもが納得できるものになるのかずいぶんと話し合う。今年の子どもたちはすんなりと進んだが、昨年度の子たちは「自分の自由」にこだわる子が多く、これにずいぶん苦労したのを覚えている。

けれども、ちゃんと整理してだれもが納得できる案をクラスの合意で磨いていくこと、これにつきる。民主的な場を学ぶ機会に一番なっているのが席替えかもしれない。

ということで、席替えは毎週1回やっているけど、実は算数の授業でもなれてきたら「毎回」席替えをやろうと考えている。グループワークをするときに、いつも役割に偏りが生まれやすいからだ。

このあたりは、昨年度もやっていたので子どもたちはとてもよいと受け入れてくれていた。

席替えはただの方法だけど、どういう方法にするのかちゃんと合意で決めて桶さえすれば、一年間うまくいくと思う。

くじ引きボックスはもう20年つかっている笑。子どもたちよりもぜんぜん先輩の箱。

概念を獲得するために必要な「多様性」

僕は週5回ある算数授業をいろいろ使い分けている。

4回は通常のカリキュラムをベースに僕がそのときに子どもたちにあった問題を作ったり、見つけたりしながら、全員で考えるいわゆる「一斉授業」を基本としている。

そして金曜日はおもいっきり考えることを楽しむ時間として数学者の時間を設定している。それはいわゆるワークショップ授業。

こないだ、学年の先生が「あの算数授業を本にすれば売れるよ」と教えてくれた。僕は数学者の時間を本にするつもりはあっても、通常の算数授業を書籍化する考えは全くなかったから、驚きとともに、ミリオネア・ビッグチャンスかも!笑 だれか僕からノートを元に書き起こしてくれるライターをやってほしい。

けれども、全員で考える一斉授業ばかりではなかなか進まないことがある。それは、計算の習熟。

算数授業では、様々な「考え方」を子どもたちとケンケンガクガク話し合う。一つのことを様々な角度から立体的にみることでそれこそ「概念」を獲得することができる。

先日読んだ研究結果に、概念にまで昇華された知識は脳の中で圧縮してしまわれることを示されていることを知った。一方で概念にまで磨かれていない知識は脳の中のスペースをふんだんに占め、活用することが難しくなるようだ。

“脳は概念のみを圧縮することができるが、規則や方法を圧縮することはできない(グレイ&トール)” 

つまり、算数が得意だなって思う子の共通する特徴は、一つの解法だけではなく「多様な」考え方で考えることができる。一方、算数が苦手だなって子に共通する特徴は学んだことを抽象化された概念にできずに、いわゆる手順、やり方、計算方法に固執してしまう。

同じ計算パターンの問題が出てきたときは解くことができるが、ちょっと応用になると太刀打ちできなくなってしまう。それは学んだ知識が概念化されていないからだ。

となると、じゃぁどうやって概念化していけばいいの?ってなるけど、桑子敏雄『何のための「教養」か』には、

“教養とは、すぐれた選択を導く総合的、統合的な知であり、思慮深さである”

として、「しっていること(覚えていること)」「わかっていること(説明できること)」から、実際に「できること」にしていかなければならないとあった。僕はこのできるようにするための「算数・数学する」時間が必要だと考えている。

同書では、「できるようにする」ためには、プロジェクト学習が効果的で、学習者が理想を追求する中で、一人ひとりがよりよい選択をする思慮深さ(フロネーシス)を学ぶリアルな学習を推していた。

なるほど、ここにも学習者自身のエージェンシー(主体性)が発揮されることで、自分の意図によって学んだことを活かしてできるようになっていく道筋がみえてくる。

僕はその際、その「できること」に向けて知識を働かすためにも、日常の授業を多面的に、多様に考える算数・数学経験があってこそだと思う。ひとつのことをじっくりと、ゆっくりと様々な方法で「多様性」ある解法が必要だ。図、式、グラフ、表、さらには「ものづくり」や「半具体物をつかう」ことなんかに可能性をみつけようとここ数ヶ月いろいろ試している。

ただプロジェクトすればいいとは思っていない。「できるために」に使える知識に磨いてくためにも、ひとつのことをゆっくりといろいろな方法で考えること。こういう経験なくしては、ハイマール(這い回る)になるんじゃなかろうか。

今日、書きたかったことは、その多面的に考える授業だけでもだめで、ちゃんと習熟する練習時間をとってあげることがやっぱり必要だってことだったんだけど。まぁいいや笑。

僕の著作物が受験/試験に使われるようだ

今朝、職員室の机上に書類が一通届いていた。開けてみるとこれまでにない興味深いものだった。それは僕のこれまで書いてきた著作物の中から(どれかは言えない)、受験に採用されることになったらしい。その問題と許諾願い、そして、決して安くはない使用料についての詳細が届いた。

なるほど、こういう許諾願いが届くのか。ありがたいものだ。

ためしに僕もその問題を解いてみようと試みた。しかし、残念ながら答えはよくわからない。悲しい。作者である僕ができないのなら、子どもはおしてしるべし。いま、もしかしたら子どものほうがよく解けるのかもしれない。問題そのもはなかなか思慮深く、時代が反映されている良い問題だと思った。詳細は書けないのが口惜しい。

作者の気持ちを推し量る問題はこれまでよく解いてきた。実際に、自分がその立場になって思う。

あのとき書いた自分はもういない。もう作者の気持ちはわからない。

これが書くことの本質かもしれない。書く前の自分と書き上げたときの自分、そして書き終わったものを改めて読む自分、これはすべて自分であっても自分ではない。

書き始めることで、思ってもみなかったこと、言葉にならないことが言葉にすることができる。書き終わったそのときの自分は、もはや書き始めた時の自分ではない。

書くという行為そのものは、そのときの自分を微分して細かく表現したに過ぎず、その微々たるピースがあいまって動的に今の自分を突き動かしているのかもしれない。書くとは動的なものなので常に更新されていくものだと思う。だから、書くってちょっぴり恥ずかしい行為かもね。

自分の書いたものが、誰かの考える役に立っているかと思うと小さな喜びがこみ上げてくる。これまでにない不思議な経験だった。

今朝、3年生の先生から蚕を数匹もらってきた。自学のマイテーマとして調べている子がいるから一緒に飼うことにした。大きくなりますように。

週末も楽しみ

週末になるとより充実してしまう。この勝手に「してしまう」「勝手になっててしまう」という中動態の「充実してしまう」感じが好きでたまらない。

今はのろのろと午後のバスケ練習の準備を始めたが、昼からの今シーズン決勝戦「琉球VS広島」戦は欠かせない。

今朝は朝5時から海外の友人からデンマークに研修にいった森の幼稚園の話を聞かせてもらった。7時から恒例の数学者の時間のミーティングで問題づくりと概念形成に関わる話で、どれも刺激的すぎた。

遡って金曜は午後から八ヶ岳夏合宿の下見。自然の中で焚き火をして、いがちゃんカレーを作って、月見をしてテント泊。からの土曜日は一日トレッキング。子どもたちが冒険できそうなグループチャレンジの素案を考えながら歩いた。そして来年はシャワークライミングと登山をやりたいと決心。来年はKAIや3号にも参画してもらいたい。

僕は毎年の八ヶ岳寮下見でテント泊するのが楽しみでしかない。自然の中にたっぷり浸れて、心のバランスを取り戻せるから。

今回はふかふかの落ち葉の上にテントを置いてみたら、案の定、最高の寝心地だった。古い森なので倒木にやられないように設置場所にも気を使っている。同僚は「クマが出るから外はやめとけ」と半ば呆れながら声をかけてくれるが、彼らもやればいいのにと心から思ってすすめているが誰もやりたがらない。稀有な同僚も一人いたが他の同僚の目を気にしてやめたそうだ。アドベンチャー、やればいいのに。

不思議と、寝ているのに五感が研ぎ澄まされていくのを感じた。深夜、何か大きそうな動物の咆哮と唸り声、枯れ葉の上を走る小動物の音、朝の鳥の囀りで目を覚ますとバキバキの身体を起こしながら「あぁ生きている」と実感してしまう笑。

平日よりも週末が忙しい。けど、会いたい人と会ったり話したり、自然を満喫したり、体力のかぎり運動してとてもリラックスしている。思いっきりチャージされるから平日、機嫌よく働けるのかも。

皆さんは週末、何に元気もらっていますか?

プロジェクト・アドベンチャーもていねいにはじめた

今年度は週1回、PA(プロジェクト・アドベンチャー https://www.pajapan.com/ )に取り組んでいる。取り組んだアクティビティはゆうに30個をこえ、徹底して関わりを増やし、おかげで子どもたちと大笑いしながら、楽しんでいる。

何でだろう。ここ数年、PAをこんなにていねいに取り組んでは来ていなかったのに。たぶんこの2年間の反省がじんわりとあるんだと思う。あんまり学級づくりがうまくやれなかったなぁって。

いつの時代も、やっぱり子どもたちはPAが好きだ。子どものふりかえりに、「PAが楽しすぎて意識が吹っ飛んだように笑い転げた」ってあったけど、ほんとにそんなかんじだった。

楽しい、楽しいというけれども、その節々に小さな成長のトラブルの種がうまれる。特に、仲間集めの「せーの」をやっているときに、クラスの子から不満があがっっておた・

ちゃんとやってくれない。勝手なことやっている。

そう、それでいいし、こうやって仲間からのフィードバックを受けながら少しずつクラスの規範を編んでいく。すると、言われた子の行動も少し変化がみられ、そこを励ましてあげたりもした。懐かしい感覚だった。

今日は初めての課題解決アクティビティ「パタパタ」をやった。輪にもなれなかったひと月前だったのに、みんなで作戦を話し合えるまでになっていた。記録は2秒を切ったのはさすがに笑った。ほんまかそれって。

楽しいので、隣のクラスにもPAをやらせてもらいに行くことになった。他の学年からもPAのお呼びの声がかかっている。先日もどこか教育系企業の人が参観していた。合宿ではPAという選択コースも用意する。

たくさん、笑って、本気になって、磨きあっていけるといいなぁ。

さて、明日は合宿の下見。じっくりと自然と向き合ってこようっと。タフな週末が続くけど、楽しみでしかたない。

自学ノートをていねいに始めた

ようやく自学ノートをはじめた。拙著『自主学習ノートの作り方 実践編』を子どもたちと読みながら、笑いながらすすめられた。

「こんなのやっていいの!?」

「たのしそー、こりゃ家が楽しみ〜!」

「なにこれ!イガせんの若い頃の写真じゃん!」

僕が小学校3年生の頃、夢中になって描いたマンモスマンのイラストでさえも自主学習になってしまうことを知らせた。好きなことは一番のドライバになる。そして、やり方も少々。

子どもたちのこれまでの話をよくよくきいみてると、すでに低学年から自学ノートを取り組んでいるようで、自学はもう嫌という子もいた。一方で、僕からの提案はまた新鮮味がある様子でもあった。少しずつ自分にあったものを続けていけるといいなと思った。

ここ数年、宿題に対する期待値はとても下がっている。僕自身が学校の学びで僕は十分満足してしまっているから。でも本当に「自主的」に自分らしい学びがどこにいっても作れるようなアンテナがはられるようになったらそれはそれでいいことだと思う。「宿題だから」と目頭とがらせずにのんびりみていけるといい。でも、一方でしっかりと力をつけられるようにしてあげたいという気持ちもふつふつわいてきている。どうしたものか。しばらくかかえてみてみようと思う。

今は、探究学習のわくわくメニューをマイテーマと呼んで、自分なりのテーマを追求はじめている。今年は国語も一部担当しているので片岡則夫さんの『ちくまQブックス マイテーマの探し方』を見本に子どもたちと読みあってすすめている。

この本、ほんといい。おすすめ。探究ときくといろいろ動けなくなりそうだけど、まずはこの本のとおりにすすめてみるといい。

子どもたちのテーマも多様で「スイカの育て方」「人はなぜ旅をするのか」にはじまり、「伝統工芸品の作り方」とか、しぶいのもある。こないだフィールドワークの一環でスイカの苗を子どもたちとお買い物にいった。学校にもどってみると、それはシシトウの苗だった。なんという残念な僕の目の解像度。

子どもたちはすでに、マイテーマの企画書を書き上げ、今は引用文献から考えを書き出していくピース作りに進んでいる。すぐにネットにとびつかず、本からしっかり学んでいくことを大事にするところがいい。ここでしっかりと探究の手順をおさえておくと、来年の卒業論文で苦労しないと思う。

さっそく休み時間にせっせとノートを書いている子が数人した。さて、明日どんなノートがあつまってくるかな〜。

昨年から北海道のJRで運転士をはじめたタカPの自学ノートの実物をひさびさに引っ張り出して見せたら、子どもたちは驚きと共にやる気をチャージされたみたい。彼は2年間ずっと電車について研究続けていた猛者だった。好きは人を突き動かす力があることをリアルに教えてもらった子。

教室はハプニングの宝庫

今朝、ある1人の子を叱っていたところ、急に女の子が大きな声をあげた。

「カマキリが羽化した!」

引き出しごと持ってきて、どうしようどうしよう!とパニックになっていた。でも嬉しそうだった。

そういえば、数日前に「みてみて、カマキリの卵みつけた!」と見せてくれた。その後、引き出しで育てていたみたい。リアルたまごっち、いや、リアルかまきっちだ。

わらわらと沸いて出てくる小さなカマキリ軍団をノートやファイルでつぶさないように、せっせとかき集めた。さっきまで叱られていた子も一緒になって顔を寄せ合い、かき集めた。

一段落すると、もう怒る気持ちもなくなっちゃった。

教室は、毎日、こういう次から次へとハプニングが飛んでくるからおもしろい。ぼーっとしてられない。

素数を子どもたちと学んだ。昨日は素数を一気に見つける2100年前の「エラトステネスのふるい」を追体験した。そして、今日はそのエラトステネスの偉業である地球一周を夏至の日の太陽高度のズレから、測ってみる問題をグループチャレンジにしてみた。

小数のわり算技能が必要だったが、まだ未習。子どもたちの話に聞き耳を立ててみると「ここに7.2度が360度の何個分になるかを倍にして考えてみると」と今ある方法で考えていた。

2100年も前の人が、夏至の太陽高度と地球の球体を使うことで、たった0.4%程度のズレの精度で地球一周46200kmと予想したのはほんとオモシロい。数学っておもしろい。

これまで担任してくれた先生たちからのプレゼント

今年は5年生。なかなかおもしろい子どもたちが集まっていて、活気もあり、クラスもようやく落ち着いてきたため、それぞれの課題がいろんなところで見え隠れしてくる時期になってきた。

すこぶるトラブルの毎日の中、それでも「おもしろく」やってられるのは、前の担任の先生からのプレゼントがあるから。

ある子が物をなくしてしまって泣いているとき、野球をやっておもうようにいかずに泣いているとき、そんなときにかけてくれる声があたたかい。

「いいよ、いいよ、悲しいときは泣いていいんだよ」

「悲しいよね。泣いたっていいんだよ」

おおー。僕も同じようなことを言うことはあるけど、子どもたちの口から自然と出てくるのは本当にありがたい。クラスがほっこりするし、受け止めてもらっている受容感につつまれる。

ここ数年、エリクソンの発達段階の第一期「(快感情も不快感情も)応答する関係」を学んでいる職場。

ここ数年、大河原ミイさんから「どんな感情もだしてよいこと」を学んでいる職場。

それらの学びを吸収して、子どもたちに真摯に向き合ってきてくれたこれまでの担任してくれた先生達があっての今。

もっとしつけをしてほしい、もっと集団行動を、なんて思っていた頃の残念な自分がなつかしい。子どもたちの中には、じっくりとその土台となる優しさが育っているんだなぁって思う。

だから、どんなトラブルがあっても、今の子どもたちと一緒にいてもなんだか心地がいい。これはこれまで担任してくれていた先生達からのプレゼントだと思う。

高学年を担任していると、如実にどんなとくに中学年を過ごしていたのかが、響いてくることが実感できることが多い。人は積み重ねてきたことが今をつくっている。

さて、今年もじっくりと進んでいこうとおもう。勉強が苦手な子がいて、放課後じっくりと一緒に考える時間をもてたのがとてもいい時間だった。算数は苦手な子ほど教え込まれてきた「やり方」に固執してしまい、その「やり方」にはめこまれてしまい、多様な見方や応用や活用ができなくなっている。結果、計算問題しかできない。

算数はやり方に終始せず、あの手この手で「概念(ミクロもマクロも)」を育ててあげることだなぁとしみじみ思う。子どもができないのは、教え方、関わり方、もってできる可能性があるってことだとしみじみ思った。