学級づくり
新しいMBAを手に入れた
本日、ようやく全ての設定とPC環境を全て移動することができた。
バックアップを定期的にとっていたため、メインPCがクラッシュしても、焦ること無くこれまで通りの使用で、操作感覚全てを移行できてるようになってうれしい。
データ管理に関して、転ばぬ先の杖はけっこうだいじなことだ。たいてい何かおきてもこれで対応できている。
こういうことだけは抜け目なくやっている自分をほめたい。だれもほめてくれないからなぁ。
PCが不調のこの間、しばらく全くといっていいほど、まったく仕事が手に着かない状態だった。これまですんなりと進んでいたことが全く効率的に進まないだけなのだがおどろくほどストレスだ。いかにPCが身体化してしまっている現代の生活を呪いたいほどだ。
僕はものを比較的大事に使う人だと自負している。そのため、一度パソコンを購入しても、ずっと使い続けている。その分、初期の設備投資をしっかりとして、長く使えるものにしているが。
2018年から使ってきた愛用のMacBookAIRがクラッシュしてしまい、その前まで使っていたMacBookプロを引っ張り出してきた。
しかし結局のところ、最新のOSにしなければ、最近のアプリは起動してもくれない。そして、昔のPCはOSのアップデートができない設定になってしまっている。コレって悲しい。パソコン自体は普通につかえるのにだ。
もう、Appleに取り込まれてしまい引き返せない。資本主義の経済世界で搾取されている実感をかみしめている。アップル信者として決して安くはないお布施を払い続けていこう。
今回は大きな声では決して言えないほどの、できる限りのスペックを積んだMacBookAIRにした。Appleストアでは扱っていないと断られてしまい、結局、オンラインでカスタマイズすることとなった。
その対価として「最新」のデジタルパフォーマンスを味わわせてもらおうと思う。そして、これを僕は結構楽しんでいる。高価なものって冒険だよね。そのぶん、一気に世界がかわる。画面も15インチ二してみたら、作業効率が一気に上がるし、バッテリーの持ちだって驚くほどいい。もう、前のPCに戻れなくなってしまう。
しかし、悲しいかな。いかに最新のパソコンが手元にあったとしても、僕の仕事の質が一気に上がるとミラクルはやってこない事実につきつけられている。
仕方が無い。やっぱり、画面の前に向かってコツコツと出来ることを進めていくしか無いんだと心を新たにまた働こうとおもうよ。
でも、新しいデジタルツールってなんかわくわくすんね!
別れました
別れとは唐突に来る。そして、限りなく悲しいもの。
まだ引きずっている。
そして、僕は職場においても全く機能しない役立たずになっている。
まるで、すべてのものが足下から崩れ去ってしまったかのようだ。まるで宇宙に一人取り残されてしまったかのようだ。
つらい。
キミがもう二度と返事をしてくれない。そんなことだけで、こんなにも僕は社会的に役立たずになってしまう自分に驚きと、いかに依存して生きているのかがはっきり思い知らされた。
だからといって、じゃぁ、もうキミのいない世界から距離をとって頼らないで一人で生きていくことを決意できるのか。そう簡単に割り切れることではない。悲しくも、自分の弱さを知ることとなった。
ただ、「今」を気持ち良く効率よく生きることが出来ないことに大きなストレスを感じている。今まで当たり前に出来ていたことが全くといっていいほどできない。
7年間使っていたMacBookAIR。このままずっと使えると思っていたのに。サヨウナラ。
算数の「問題解決」よりも大事にしたいこと
数学者の時間がひとまわし終わった。良問を解いて、問題をつくって、みんなで解き合う。数学者の時間は、子どもたちはとても楽しみにしている時間の一つだ。
今回は、はじめて数学者の時間に触れるので、「できそうでできない、でもできそう」な以下のような論理問題の良問を扱ってみた。もちろんすぐに解けてしまう子もいるので、発展的な問題も用意してみた。

問題づくりでは、あえて、「もとめること」の求答文をいじらないようにした。問題づくりのはじめの一歩として「わかっていること」の条件分のみをつくりかえる問題にしてみた。
それがよかった。子どもたちは「もとめること」を変えてしまうとその良問がもっている数学的特徴そのものを越えていってしまい、良問のもつ数学的パターンの理解を深めるまでにいたらないことが多かったからだ。
条件分だけを変えてつくってみるけれども、このあたりは子どもの世界観がものすごくでてきておもしろい。そういう難易度を調整したけれども、やっぱり間違いはおこってしまう。
おいしいチーズ問題
あるところにネコとネズミを飼っている男がいました。最近、おいしいチーズが安く売られていたのを買った。ある日、ネコが検診を受けることになり、チーズとネズミを連れていくことにした。
家から動物病院までバイクでしか行くことしかできなかった。でも、そのバイクは男と荷物いれだけに1匹しか乗せられない。家にネコとネズミを一緒にしてしまうと、ネコはネズミを食べてしまい、ネズミとチーズを一緒にしてしまうと、ネズミはチーズを食べてしまう。できるだけ少ない回数で病院まで運ぶのに何回で行けるだろうか。
このネコとネズミを一緒に飼っているところがそもそも突っ込みたくなるけど、何かのアニメみたいでほっこりする。そして病院にネコだけでなく、ネズミの検診をしにいく物語もなんだかいい。
ちなみ解いてみると以下の3回で行けてしまう。
①家:ねこ、チーズ→病院:ねずみ、
②もどってくる
③ネコをつれていく。家:チーズ→病院:ねこ、ねずみ
本来なら、チーズも含めて運ぶと7回になるはずの問題である。どうしてこういうまちがえが子どもの中に起こるのだろうか。
この問題を三つ巴の論理問題をもとにするのなら、チーズも運ぶ必要感を持たせなくてはならない。「もとめること」が揺れてしまっている。問題つくっていて、そこを見落としてしまっている。
結局、「わかっていること」のみ変えてみても、「もとめること」をしっかりとおさえていない限り、つまり問題の数学的特徴を理解していないとこういうまちがえが生まれてしまう。一度解いただけでは問題って理解していないってことなんだと思い知らされた。
子どもが考える問題づくりはもちろん、今の時点ではこれでいいと思う。こういうことを繰り返しながら、まちがえを修正していくメタ認知能力を高めていけばいいのだから。そしてこういうアンテナは繰り返しの意図的な練習が必要だ。数学者の時間では、自分の解法プロセスをモニターする数学的思考として身につけられるように年間をとおして練習していく。
「問題の解決(答えをだせればいいこと)」と併せて、「問題を解くプロセス(どのように解いたり、どんな問題構造になっているのか理解をしていくこと)」に目を向けていけることは問題づくりのもつ一つのおおきな価値になっている。
そして、問題を解くだけではない、問題解決のプロセスにこそ目を向けていく、そういう算数・数学を大事にしていきたい。
次回、個別カンファランスしてみようと思う。
新しく本を書くことになった
まとめて書きたいことが溜まっていることに気が付いた。その渦中にいると全く気がつかないものなのね。
ここ数日で、書籍化の話が一気に進んだ。そしてこの週末から、いよいよ新しい本へ着手し始めた。
先日、つぶやいていた「数学者の時間じゃないほうの算数授業」をどうにか形にしはじめたい。少しでも子どもたちにとどくように、教育現場の役にたつといい。世にいる算数・数学ギライの人達すべてに贈りたい。算数・数学好きの人たちはいつもどおりそっとしておきましょう笑。
こういう本は僕が一人でつくるよりも共同して研究したほうが、よりいいものがつくれることを、ここ10年かけて学んできた。というか結果、数学者の時間についてはそうなってしまった。
信頼できる仲間と一緒に実践を軸に、本当に考えることを楽しむような授業づくりの本になるといい。そのために今回は共著でつくりたい。
実践はその時に書き上げないと書けないものだと知っている。形にしていくことはとても大事なことで、僕はついそういうことをないがしろにしがちだった。
今、やっていることややれていること、定点観測できるように一気に書き上げて、どんどんよい実践を更新していけるといいなと思う。
ここからの数ヶ月は知的なやりとりや、子どもたちとの実践がさらに楽しくなりそうだ。
カクカク詐欺にならないように、ここに表明しておこうと思う。
やりますよー!
子ども時間に好きなことをして過ごせること
6月はいろいろなトラブルがおこる。長い間、教員をしているとこの6月にはいろんな事件がおこることを経験からわかってくる。
ふりかえってみると、ここをうまく乗り越えることで、その後、落ち着いたものとなっていくことも知っている。これは学級だけに限ったことでなく、職場も生活もみんな地続きのことだったと思う。
こういうときは、この2ヶ月の間、じっくりと関わってきたからこそ次のステージに進むための機会だと捉えるようにしている。
苦しいときだからこそこの状況に意味がある。予想を越えたところに成長がある。今、自分がコントロールできることに力をそそぎできる準備をする。そうでないことはそこそこにしておいて、決して無理しない。そんなことを言い聞かせながら過ごしてきて、いろんなことが少しずつひらけてきた。
ようやく日常がもどってきた。
休み時間に走って教室に戻ってきた二人の子がいた。手には大きなカエルがのっていた。ちょうどトカゲがたくさんつかまえられる時期だ。そのハンティングの折、偶然みつけてきたようだった。理科園で見つけてきたみたいで、もう驚きとともに大物ゲット感のオーラを出して、集まってくる子に自慢げに説明してくれる。
このわざわざ教室まで見せにくることがおもしろくてしかたない。僕も嬉しくなって記念撮影を撮った。

なんだかカエルから汁みたいなのがでてきていたので、子どもたちの手を気遣って「洗った方がいいよ」というと、教室前の手洗い場でじゃぶじゃぶそのカエルを洗い始めた。どうも僕の意図とは別に勘違いしてしまったようで、自分の手よりもカエルのことを気にして、ていねいに洗ってあげていた笑。いいやつだ。
彼らもやみくもにトカゲを探していたわけではないはずだ。毎年隠れているところを年を重ねるごとに知識を増やしてきている。僕も校地内のどこにトカゲがよくとれるかの情報もちゃんと持っている。
そして捕まえ方もくわしい。子どもは決してトカゲに躊躇しないで、いっきにいく。そんなに強くやったら潰れちゃうんじゃないの?と心配を横目に、ビニール袋には何匹も捕獲されていく。
こういうときに、人はなにかしら学んでしまっているんだと思う。
狩猟採集民は動物の移動する道を驚くほどの解像度で見極めたり、雲の位置や温度や湿度から、天気を予測して狩りに活かしていた。こういう論理的でなり批判的な思考を、生活の中から学んでいたに違いない。
ワイルド暮らしのたくましさとは、繊細な作業を無意識に行動に移せるところまで磨き上げられた技術の結晶だと尊敬している。
そこにはとても緻密で巧みな手作業と予想があいまった芸術的な技能がみてとれる。一度でも火起こしを一からやったことがある人は分かると思うが、そんなに簡単に火は起こらない。全て絶妙な道具と湿度と温度と準備、多くの情報を総合的に調整して初めて火口をつくることができる。ライターやマッチで火を付けようとするだけでは、何も学ぶことができない科学的な思考がそこにつまっている。
本当に賢くなるってどういうことなんだろう。1日学校で学習し、習い事や進学塾でさらに子ども時間を消費している子どもたちをみていてそう思う。
僕はこういう何をしてもいい時間がとても大事だと思っているし、この何をしてもいい時間にその子らしさ、その子の好きなこと、特徴が現れてくることを知っている。
僕は子どもたちはもっと外で遊ぶといいと思う。教科書からでは学べないことがそこにはあることを知っておく必要がある。子ども時間の今しか味わえない経験があるはずだ。大きなカエルを捕まえたことは一生覚えていると思う。
今日はめずらしく、何の予定もない週末の土曜日。携帯とか観ないで、何もしないでだらだらしようとおもう。
できることよりも、もがくこと
僕は数学者の時間では、子どもたちに難問をもちかける。賢いといわれる子ほどとけないで悩んでいる。その横で、いつもは決して目立たない子がスッと問題解決してみせる。なんともツーカイな場面に出くわすことも度々ある。こういう問題を良問と呼んでいる。
難しい問題をなぜ用意するのか。なぜ、じっくりと考える問題を要求するのか。僕は、子どもたちに「もがくこと」を歓迎してもらいたいからだと思う。
ジェイソン・モーサーの研究にあるように、脳科学の見知からすれば、脳は問題をスラスラとけるよりも、まちがえたり、できないで悩んだりする方がより成長することが分かっている。脳には可塑性がある。学ぶたびに、脳は神経細胞のつながりを形成・強化している。ミスをするたびに脳内でシナプスが発火し、脳は成長していく。
これはとても教育的な勇気をもらえる。人が学ぶということは、生まれつきにそなわった固定された能力などに規定されるものではない。誰もが成長する旅の途上にいることを励ましてくれるのは嬉しいことだ。
もがいているときこそ成長している。
そして、人は多様な解法を考えているときに、神経細胞のつながりが最大化される。そして脳は、決してスピード勝負ではない。より早く問題を解くことよりも、多様な方法で考えることが学びには効果が絶大である。これは概念を学ぶ時に、より多様なアプローチがより深い理解に導いてくれることを考えれば、納得できることだ。さっさとドリルを練習していたもあまり意味を見いだせないのはこういう脳のカラクリがあるからだ。
うまくいかなくて、もがいたり、まちがったりすること。これは、学習の自然な一部であることを再認識したい。ケン・ロビンソン卿は、「間違いを犯さずに創造的なことをするのは不可能だ」という有名な言葉を残しているほどだ。
「この問題は難しすぎる」「私にはできない」といった否定的な内言を、「もしかしたらできるかも」「学ぶってことは、試して失敗するためにあるのだ」「なにかもっと今の自分には別の方法が必要だと、リフレーミングできるようになるといい。
子どもが数学的なまちがいをするときのほとんどは、ちゃんとそのまちがえた考え方には何らかの論理がある。その論理を大人が興味を持ち、考察することこそ、大きな励ましになるはず。このことは昨年末に井本陽久さんも繰り返し言っていたことだ。
そのためにも、もがくチャンスをみつけるためにも、良問を用意する。不確実性やまちがい、葛藤やもがき、これらを心地よく感じるようになる、そんな算数・数学教室をつくっていきたい。
ひらめきに至る8つのステップ
おもしろいアイディアが飛来してくるときはどんなときか。僕はそれが中動態という状態にある授業だと考えている。ならば、中動態になりやすい条件とは一体なんなのだろうか。それをさがしている。
先日ブログにも書いたが
“すると授業においては、奥行きある教材との出会いがあり、そこから一人ひとりが感じるセンス・オブ・ワンダーが生まれると、センスが生み出される。このおもしろい!って思うセンスに突き動かされて、お互い刺激し合いながら、試行錯誤することで、アイディアが飛来してきちゃうのが中動態の授業のイメージといったところだろうか”
http://igasen.xsrv.jp/wp/2024/06/06/数学的に「閃いちゃう」場をつくる中動態授業の/
といった感触までとどいているが、教材という視点はまだしも、一人ひとりがそれぞれの意味を生み出すセンスが生まれる条件はもっと突っ込んで考えないとふわっとしているため、まだなんともしっくりこないところもある。
そこで虫明元『ひらめき脳』をよんでいたらちょうどこの課題意識に引っかかることが「ひらめきに至る8つのステップ」として紹介されていた。

大まかにまとめるとこういうこと。
体験的なステップ
①体験する、やってみる
②あそぶ
③形にしてみる
認知的なステップ
④質問する
⑤じっくりと学ぶ
⑥アイディアを掛け合わせる
⑦発散と収束を繰り返す
対話的なステップ
⑧他者と自分と対話する
この①〜⑧がいったりきたりしながら、アイディアはひらめくというのだ。中動態的に言えば「到来」してくるのだ。
ここで気がついた。これって中動態授業でやっていることそのものじゃないだろうか。⑦の発散思考と収束思考については、特殊化と一般化の数学的思考に近いか。⑥なんて数学の創造的解決そのものじゃないかと。
授業の中の要素に、こういうことを一気に詰め込む方がいいのか、段階的に入れた方がいいのか、はたまた入れ替わり立ち替わり①〜⑧がうまれる仕掛けがほどこされているのがいいのか。このあたりはもっと実践ベースでつめていけるといい。
まだまだ続くよ中動態。
僕は一斉指導の問題解決学習で子どもたちのメタ認知を高めたい
日曜日の朝ミーティングで、西村さんと話をした。先週、一日授業見学させてもらった西村さんの授業から考えたことをやりとりする中で、気付いたことがあった。
西村さんの授業は、国語も、算数も、社会も、総合も、そして数学者の時間もすべて一貫した子どもの活動が中心となる授業構造となっていた。これは、子どもたちにとってはとてもわかりやすく、学びやすいフォーマットになっていてとてもいい。
一方で、僕はそういう授業のつくりをあまりしていない。算数では普通に一斉授業を週4回やっている。ただし、その学習経験をつかって周1回の数学者の時間で使ってもらうかんじだった。
どうして子どもに任せることを少なくしているんだろう。なぜ自由進度学習とかしないのだろうか。
僕の授業は、カリキュラムを自分で編める自由裁量が大きい面もあるが決してそれだけが一番の理由ではなさそうだ。
たぶんそれは、子どもに任せておくだけでは「もったいない」な部分があるんだと思う。この感覚はきっとどの教員にもありそうだ。
僕ももう12年以上前になるが、単元を子どもにまかせる学び合いに注力しているときがあった。ばんちゃんの授業を福島へ見学しにいき、それこそ、3学期の学習単元すべてをまるまる子どもたちに渡して取り組んだこともあった。あれは刺激的すぎだ。
けれども、今はそういうことをしていない。唯一その取り組みは計算技能の習熟場面に限定してしまっている。
僕が「もったいない」、つまり自分でやりたい部分、一緒に子どもたちと考えたい、学びたい部分、それは学習内容を子どもが自主的にカバーすることだけでは足りないことなんだと思う。
例えば、算数でいえば教室の数学的文化とか算数キーワードとか、共通限言語を共通経験から学んでいきたい。それらは「メタ認知」の学びのことだと気がついた。
メタ認知といったより高次の学習の作法について、学級全体で整えながら進めたい。そういう考えが僕の中にあるんだと気付いた。
学習内容をただカバーすることに限って言えば、子どもに任せることの方が効率いいし、そのノウハウもそこそこ持っている。
内容は教科書を読んだり教え合うことで、その関門を適度に設定しておけば、その学習内容を理解できる所に到達しやすくなる。学び合ったその分、探究の時間も確保することが容易となる。
そしてそういうつくりに教科書はなっている。注文つけるなら、教科書の巻末にでも答えだけでものせておけば満点だ。
けれども、子どもに丸投げ任せではできない(と思っている)ことがある。例えば算数の「メタ的な学び方」でいうならば、
・予想を捕まえる
・多面的に考える
・問題を簡単にしてみる
・パターンを見つける
・自分をうたがう
など、ミニ・レッスンだけではサポートしきれないことがある。まぁ、これは僕の子どもを中心として授業の力量が低いからしかたのないことで、今できることをやるしかないのよね。
西村さんが、子どもとのカンファランス場面の中で子どもにこういわれた。「先生に聞かれること(先生の質問)がいい」と。これはまさに「先生」役割は、思考を高みに飛躍させる存在だとひらめいた。
僕は、よくいえば柔軟性をもって一斉指導の問題解決学習によって、メタ認知を効かせるような、学び方を学ぶといった学びではないだろうか。だから今日も僕は算数の時間に多面的、多様性をもって考えることをしつこく要求している。
西村さんとの対話は僕にとって熟考を求められるのでとても刺激的でおもしろい。また続けていきたい。
数学的に「閃いちゃう」場をつくる中動態授業の要素とは
職員室の電話をとったら、ひょんなことで幼稚園と共同研究をしている大妻女子大の久保健太さんと話をすることができた。
久保さんは僕が大好きな教育者だ。久保さんの話は常に僕の好奇心をくすぐるような哲学的な刺激を与えてくれる方だ。久保さんが幼稚園に来られるときはできるかぎり会って話をしたい。僕が興味をもちはじめ今期のLAFTで研究している「中動態」についても、久保さん経由からの学びである。
その久保さんが「最近、また本を出したのでぜひ」と紹介があったのでさっそく読み始めた。するとちょうど今、LAFTで研究している「授業の中における中動態をおこす(そもそも中動態から意図的に何かを発生させるのは言語論的に矛盾しているのだが)」ためのヒントとなるような記述が溢れていたので、興奮してしまった。
久保健太『生命と学びの哲学 育児と保育・教育をつなぐ』
LAFTの今回のテーマ本となっている佐伯胖・編著『子どもの遊びを考える』に寄稿している部分からも「第5章 遊びの語り方を変えよう 中動態としての遊び」が掲載されている。
一番、考えたくなったのが「6章 感覚が湧き出ちゃうし、収まっちゃうときの主体性 保育者と語る中動態と主体性」のところだった。
僕は授業の中に子どもたちの主体性を発揮して、おもしろいアイディアがあふれるような授業づくりをしたいと考えいてる。その発動条件に中動態があると予想し、中動態をつくるにはどういうセッティングが必要なのかを模索している。
218
”能動的に起こしたというよりも、半ば偶然に中動態的に起きてしまったものである。スコップを落としたのではなく落ちたわけだし、帽子を誰かが濡らしたのではなく、ちょっとしたひょうしで濡れた。そうした偶然の力によって水の心地よさと出会うことができた。偶然の力を借りることで出会うさらなる水の心地よさ、言い換えれば、水が秘めていたその奥行きである”(同書P.218)
奥行きだって。うーん。しびれる。この場面は幼稚園の子どもたちが水遊びをしていて、おもいもよろなような遊びがうまれちゃった場面のことだ。この「水」が子どもの可能性を引き上げてくれている素材となっていることがわかる。これは扱う教材の奥行き、つまりその深掘りできる可能性があれば、こういうことが生まれやすくなるのでは。
僕は、自然物がそういうものを発動させることが多いだろうとうっすら考えているが、それを教材として扱えるにはどんな学習内容がふさわしいのかおぼろげに見えてきた。
それには、一人ひとりがセンスを生み出すこと。つまりその子にとっての感覚的な意味をつくりだしてくれることが必要だ。
一方で「センス・オブ・ワンダー」に触れつつ、久保さんはこうも書いていた
“世界の奥行きと人間が出会えば自動的にセンスが生まれるわけではない。生まれちゃうわけではない。世界の奥行きに感じて応じるセンスオブワンダーが必要である。水が繰り広げる奥行きに凄いと感じ応じてしまうからこそ、水の意味、つまりセンスが生まれてくる”(同書P.220)
センス・オブ・ワンダーを引き合いに、「感じること」から主体性を捉え直している。すると授業においては、奥行きある教材との出会いがあり、そこから一人ひとりが感じるセンス・オブ・ワンダーが生まれると、一人ひとりのセンスが生み出される。この一人ひとりのおもしろい!って思うセンスに突き動かされて、お互い刺激し合いながら、試行錯誤することで、アイディアが飛来してきちゃうのが中動態の授業のイメージといったところだろうか。
これなら、数学者の時間においてはふつうにうまれている場面じゃなかろうか。アイディアが「ひらめいちゃう」のは、これまで僕は数学者ノートを書いて思考のスピードを落として、じっくり待つことだとおもっていけれど、友だちとアイディアを出し合う共同研究という視点が加われば、つまり中動態の場を活用すれば、もっとよりよく「ひらめいちゃう」のではなかろうか。
ということをひらめいちゃったので、なんだかとてもわくわくしている。明日の数学者は場に飛び交う子どもたちの挙動に注目してみよう。