この夏、久々に再燃したもの、それがジャズだった。
きっかけは漫画『BLUE GIANT』を読み直したことだった。国内編からヨーロッパ編を経て、いまはアメリカさらにはニューヨーク編に入っている。
読み進めるうちにまた強烈にジャズが聴きたくなり、先週は平日にもかかわらず新宿のジャズバー「PITINN」にまで足を運んでしまった。本格的なジャズの即興演奏に触れる時間は、新学期の疲れが一気に吹き飛ばす清涼剤となった。
この流れで、たまたま観始めた映画が「セッション(アマプラで無料)」だった。名門音楽大学を舞台に、鬼軍曹のような教授が若きドラマーをスターへと仕立て上げようとする物語。血のにじむような練習、精神的に追い詰められる主人公、そしてその先に待つステージ。これまで観た映画の中でも屈指の衝撃を受けてしまった。やばい。超おすすめ。

なぜこれほど心を揺さぶられたんだろう。単にジャズ好きだからではない。僕自身、長い間ジャズを聴いてきて、昔の即興性豊かな演奏も、現代的な新しいジャズも好きだ。だが、今回、映画「セッション」に強く惹かれたのは、ちょうどパワハラについて考えていた時期だったからだと思う。
きっかけはバスケットボール。僕はBリーグのサンロッカーズ渋谷のファンで、国内のプロリーグをよく追っている。ところが先月あたりに、越谷アルファーズの監督がパワハラ問題で3か月の謹慎処分を受けた。シーズン途中に選手が移籍したり、パフォーマンスが落ちたりした背景にも、この威圧的な指導が大きく影響をおとしていたんだろう。
こういったトッププロの世界でさえパワハラが起きてしまう。これって、どういうことだろう?
以前、灰谷健次郎の小説から「暴力は弱さである」という言葉を知って以来、僕自身は子どもたちに大声で怒鳴ることをやめてきた。もちろん厳しい口調で叱ることはあるが、恫喝して相手を動かそうとするのは、教育現場では意味がないと考えている。最終的に、人は自分の決断で変わっていくものだから。
でも、勝敗がすべてを左右する超一流の舞台ではどうなんだろう。決勝戦の残り数秒、あと半歩で未来が決まる場面。そこで威圧的な指導が「最後のスイッチ」として行われるのではないか。そんな想像をしてしまう。
「セッション」はまさにその問いを僕にぐいぐい突きつけてくる作品だった。教授の指導は、才能を伸ばすためという大義名分をまといながら、実際には自己顕示欲や虚栄心にまみれている。だが、結果として主人公は常人には耐えられない練習を積み重ね、血を流し(実際に血だらけになってドラムをたたくシーンは目を背けたくなるほどだった)、限界を超える。もうこれ「教育虐待でしょ」と思う一方で、「それでも名演奏が生まれてしまう」現実から目を逸らせないでいた。
繰り返すが、僕は決してパワハラを肯定しているわけではない。教育現場でも、プロスポーツでも、本来あってはならない。だが、超一流の領域において、成果が出てしまえば組織が黙認し、称賛すらしてしまう。その矛盾が、現実社会でも細々と続いているのではないかと勘ぐってしまう。
「セッション」のクライマックスでは、教授と主人公のドラマーは再び同じステージに立つ。そこに待っているのは、教育でも指導でもなく、復讐にも似たぶつかり合いだった。その緊張感こそが観ている人の心を鷲掴みにする。
この映画を、ジャズ好きとして以上に、パワハラ問題に引き寄せられて観ていた。だからこそ、今のタイミングで出会えたことが大きかったと思う。人からのお薦めってこういう文脈がピッタリはまるときに「おもしろい!」ってなるんだろう。逆に言えば、このナラティブを共有できなければ、「つまらない」になってしまうんだと思う。
結局のところ、パワハラは弱さの表れであり、許されるものではない。でも、人間の極限の場面では、それが結果と結びついてしまうこともある。その危うさを、ジャズとバスケから色々思ってしまう。