なぜ今、「学習科学」なのか

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

今期のLAFTのテーマは学習科学とした。テーマ本は『人はいかに学ぶのか』だが、その第一版である『授業を変える 認知心理学のさらなる挑戦』はすでに持っていた。本にはレシートが挟まっていて、よく見ると2011年の日付。ページにはいくつか線が引いてあったが、改めて読み直してみると、当時の自分の視点はずいぶんピントがずれているように感じてしまう。でも、ナイスチョイス。その選択が今につながっているのだから。

『人はいかに学ぶか』はその第二版にあたる。米国では2018年に出版され、それまでの約20年間の知見が集約されたものだ。それが4年を経て邦訳され、手に取ってはいたものの、知っているつもりで深く読み込まず、積ん読状態になっていた。

今回のLAFTでは、あのとき実現できなかった「効果的な学習のポイント」を活かしながら、よりよい授業をつくっていきたい。個人的には、「数学者の時間」における理論的背景や、学習科学を用いた授業実践をさらに深められたらと思っている。とはいえ、さっそく第一章に「理論を実践に移すには相当困難を極める」との論文が紹介されていて、早くも詰んだ(笑)。

学習科学といえば、2019年にジョン・ハッティの『教育効果を可視化する学習科学』をテーマ本として扱ったことがある。これは当時、日本でも話題となっていたエビデンスベースの実践研究で、振り返ってみると、これが「学習科学」への僕の入り口でもあった。

半年という時間をかけてじっくりと読み解くことで、エビデンスの扱いについても理解が深まった実感がある。あくまでもメタ分析であり、より効果的な実践を示唆してはいるが、それを目の前の子どもたちにどう援用するかは、やはり難しさを感じる部分でもあった。今回は、そうした量的な分析を越えて、質的な側面にも踏み込んでみたい。

当時のLAFTエビデンスは、第5回目がコロナの影響で実施できずに終わってしまった。翻訳者の原田信之さんからは、「LAFTでの取り組みや実践を学会で発表してはどうか」と勧めていただいたが、それも実現には至らなかった。

エビデンスを広く集めて分析する量的な研究の枠を超え、質的な教育的価値をどのように提示できるのか。「学習科学」研究では、それが可能なのだろうか。今回のLAFT学習科学での取り組みが、そのヒントを与えてくれることを期待している。

そもそも、なぜ今回のテーマを学習科学に決めたのか。それは、前回LAFTのテーマであった中動態からの流れにある。もし中動態に筋肉があるとするならば(ないけど)、僕の中では「上腕中動態筋」がパンプアップしている。それは子どもたちの姿を中動態的に捉えられるようになってきたということだ。実在論的な理解から関係論的な理解へと、自分の見方が変化してきた。

佐伯胖によれば、関係論とは、事物を説明する際に、その事物自体の構造や属性だけで説明するのではなく、事物がどのように見えるか、どのようなあり方をするかを、他の事物との関係性の中で捉える立場である。これらの関係が独自の状況を生み出し、人間の行為もまた、その状況に埋め込まれている。この関係論的な見方は「状況論的な見方」とも呼ばれる。ようやくこの状況に埋め込まれた学習について理解が及ぶようになってきた。

「関係論」的な見方では、行為を周囲との関係性の中で理解する。例えば、一人で遊ぶ子どもの行為には、仲間に入れてもらえなかった経験、保育者の関心を待つ姿勢、あるいは純粋に砂の感触を楽しむ意図など、さまざまな背景があり得るだろう。このように、行為は子どもを取り巻く状況や過去の出来事、周囲の関係によって意味づけられている。

一方で、「実体論」的な見方では、行為の原因を子どもの心の中に求めがちである。「○○したいから」「○○が嫌だから」といった内面の解釈を試みるが、行為の原因が本人の意図に基づくとは限らないのが実情だろう。むしろ、その時々の状況や関係性によって、そうせざるを得なかったケースも多い。原因を無理に特定しようとすると、誤解や誤った原因の捏造を生んでしまう危険性もある。このあたりは國分功一郎が説く責任の生成にも詳しいので参照にされたい。

関係論の視点では、行為には未知性が伴うと考え、説明のつかない行動を既知の枠組みに押し込めることを避けることができる。重要なことは、子どもを直接見るのではなく、子どもを通して周囲の状況を見て行為を理解すること。これにより、行為を関係性の中で捉えることが可能になれる。

中動態について学び続けてきたおかげで、こうした理解がすんなりと自分の中にインストールされた感覚がある。そして、この関係性の視点をベースに、社会構成主義を背景とする「学習科学」へと敷衍していくことが、今回のLAFTの狙いである。次への一歩というかんじだ。

LAFTでの学びとは、やってみないと分からないことばかりの連続である。学びの成果は、事後的にしか分からない。メンバーと共に読んで、考え、実践して、また読む――そうした積み重ねの中に学びが埋め込まれていたことに、後になって気づく。

そもそもLAFTは、当時、管理職に締め付けられていた若手教員が奮起し、中心に始めた学習サークルだった。「先生こそ学びを楽しまなければ、子どもたちが学びを楽しめるはずがない」という思いで始めた。それが続いていくうちに、お互いの苦労を語り合い、癒やし合う場にもなっていた。そのコンセプトは今も変わっていない。そして経験を重ねることで、今年で14年目となった。

今、僕はもう若手ではない。自分が学びたいと思っても、その学びの場を見つけることができなくなっている。若い人たちは自ら学びに飛び込んでいくが、中年の僕は、学びたいと思っても、なかなか場がない。ならば仕方ない。自分で作るしかない。そんな思いで、自分の思想や教育哲学を更新するつもりで、LAFTを続けている。

今回のLAFTには、いくつか新しい試みがある。前回のテーマ本『中動態の世界』は、読書体力の求められる本だった。一人では走りきれなかったからこそ、集団で語り合いながら読み進められたのはよかった。

今回取り上げる『人はいかに学ぶのか』は、教育界の大御所・秋田喜代美さんが翻訳・編著を手がけた一冊だ。もしかすると、直接こうした学習科学の背景について話を聞けるチャンスがあるかもしれないし、ないかもしれない。

この本も学術書だけに、一人で読みこなすのはなかなか大変だ。そこで、今回は単なるブッククラブではなく、各章を担当制にし、それぞれのサマリーをプレゼンしてもらおうと思う。というのも、僕自身が最近この方法で読書を進めていて、とても知識がつくられている実感をもてているからだ。読書プレゼンという形にすることで、理解がより深まるはずだ。

さらに、オンラインで「LAFTラジオ」も始めたいと考えている。この構想については、また改めて機会をもって詳しく報告したい。

いずれにしても、学びには時間をかけることが欠かせない。一朝一夕でペロッと新しい情報を取り入れたとしても、それが生きた知識として磨き上げられることはないなぁ。だからこそ、学習科学を通して、我々自身も「学ぶコツ」を学んでしまおう、というわけだ。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。

最近のコメント

    コメントを残す

    *