「思考する授業」は、いまも試行中

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ひさびさに、校外へ授業を開いた。今回は「数学者の時間」でものを使って思考する問題づくりの2時間目と、Building Thinking Classroom(BTC)のスタイルで進めた授業の2本立て。声をかけてみると、さまざまな分野の方々が9人ほど集まり、授業を参観してくれた。

いつもと同じような準備をして、普段通りの授業。特別なことはしていないし、できない。あんまり無理しないで継続可能なやり方で、今できることをそのまま見てもらった。

ふりかえってみると、今の自分の授業スタイルは、目の前の子どもたちとの日々のやりとりから生まれているものだと実感している。BTCのような構造的な設計を選ぶのも、数学者の時間のように考えることそのものを楽しむ授業スタイルを選ぶのも、それぞれ子どもたちの姿と自分が大事にしている在り方に根ざしている。この両者をうまく行き来する今のバランスは、自分にとってとても心地よい。

授業後のふりかえりでは、いくつか興味深い話題が出た。

授業は決してライナー型ではない。一直線に正解へと導くのではなく、子どもたちが迷ったり、立ち止まったり、話し合ったりしながら、少しずつ理解に近づいていくような構造になっているということ。僕自身も日々迷いながら、その渦中にいる。それでも、目的は「できるようになる」ことだけではないし、そうでありたい。

だから、多少の騒がしさや、つまずき、あるいは途中でのドロップアウトさえも、封じ込めようとはしていない。もちろん、整っている授業への憧れもある。でも同時に、「あそび」や「ゆらぎ」の中にしか生まれない思考や発見があることも知っている。前回のLAFTで國分功一郎さんから学んだ“中動態”の考え方は、授業づくりに静かに影響を与えてくれている。

こうしたあそびの中で、ふと生まれる「うっかり思いついちゃう」創造性。それを大切にしたいという気持ちは強い。ただしそれは、指導の予定調和とのトレードオフにもなる。思うように進まないこともあるし、うまくいかないまま終わる時間もある。

でも、そうした「うまくいかなさ」を含み込めるかどうかが、授業づくりにおいて大切だし、あんまり語られないし、語られたくないのかもしれない。教師としての力量は、むしろこういうことにこそ試されるのではないだろうか。

ふりかえりの中で、あらためて気づいたのは、子どもたちが何につまずいているのか、僕は案外見えていないことが多いことだった。そして、それを「わかるようにする責任」のすべてを教師だけが背負うのではなく、学習者自身が「わかろうとする責任」を持っている、そう渡していくことが本来の学びではないかと思っているふしがあるから、ついそうなっちゃっているのかもしれない。いいわけ!?

最近は、子どもたちがどんな対話を交わし、どんなときに理解が生まれるのか、その「対話の質」に関心が移りつつある。次回のLAFTでは、研究者の一柳智紀さんをお招きし「子ども同士の対話の質」について深めていく予定。これは、きっと面白い時間になるはず。

こうして授業を開き、話し合っていくと、結局いつも根っこに立ち返る。自分は子どもたちとどんな景色を見たいのか。どんな社会を一緒につくっていきたいのか。そうした問いと授業は切っても切り離せない。

今回あらためて、「数学者の時間」とBTCというふたつの実践を、行き来しながら調整し、自分と子どもたちの今に合った授業をつくっていることを再確認できた。まだまだ試行錯誤のまっただ中、この途中にこそ学びがあるなぁと思いながら、これからも続けていきたいと思う。

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