2025年 2月 の投稿一覧

LAFT中動態スピンオフ 矢野さんとの対話 カエルがいたらゆでるでしょ!? 主体性の揺れを考える

先日『子どもの遊びを考える』の提案章を執筆した矢野勇樹さんと、LAFTメンバーの内輪でオンライン対話を行った。気軽にさまざまな話ができる貴重な時間だった。

矢野さん自身は現在、教育理論や実践の場には関わっていないようだが、当時のことを振り返りながら丁寧に語ってくれた。その穏やかな語り口の中には鋭い視点が光っていた。

「カエルがいたらゆでるでしょ?」 遊びの主体性と中動態

対話の中で印象的だったのが、「カエルがいたらゆでるでしょ。子どもは」というエピソードである。

「能動/受動」の枠組みでは捉えきれない「遊び」という行為。遊びとはそもそも、誰かに「遊ばされる」ものではなく、内側から沸き起こるものだと中動態を援用して、矢野さんは提起している。この視点から、遊びは「能動/中動」の枠組みでこそ記述されるべきだと指摘している。

プレーパーク冒険遊び場の話も興味深かった。子どもたちは「よーし、今日はカエルを捕まえるぞ! そして火を起こすぞ! よし、ゆでてみよう!」と事前に計画して遊び場に集まるわけではない。その場にカエルがいたら、ふと「ゆでてみよう」とひらめいてしまう。こうした「内側からのひらめき」を矢野さんは主体性ではないかと呼んでいた。

僕自身も子どもの頃、駄菓子屋で爆竹を買い、公園で友達と遊んでいた記憶がある。水辺には小さなカエルがいて、目の前に爆竹があると「試してみよう」とひらめいてしまう。今となっては考えられないが、あの頃の僕もまた、確かに僕だった。こうした衝動やひらめきは、主体性のどのような側面に関わるのだろうか。

主体性Aと主体性B 子どもの成長におけるせめぎ合い

この話を聞いて、僕が思い出したのは大妻女子大学の久保健太さんが提唱する「主体性A」と「主体性B」の違いだ。

  • 主体性A:「やりたい」「やりたくない」「なんかいい」「なんかやだ」といった直感的な感覚が自然に生じることで、「生きている実感」に満たされる。理由や論理を必要とせず、ただ感じることそのものに価値がある。
  • 主体性B:主体性Aによって湧き出た感覚や感情を整理し、それに基づいて「するかしないか」を決定する働き。これは思考や知性の関与を必要とする「行為主体性(agency)」であり、OECDが好む「主体性」の概念に近い。

この二つは対立するものではなく、連動しながら人が「主体であること」を生きるための重要なプロセスとなる。

子どもが成長する過程では、主体性Aと主体性Bがせめぎ合いながら発達していく。幼少期には主体性Aが強く、「やりたい」「やりたくない」という衝動が表に出ることが多い。しかし、成長とともに主体性Bが加わり、自分なりの判断基準や社会との関係性を踏まえた選択をするようになる。この発達は「ゆれ」として現れ、「自由にやりたい」という気持ちと「約束を守らなければならない」という意識の間で葛藤して子どもは成長していく。

また、主体性Bには「倫理的な感覚」も含まれている。「風邪をひくからやめなさい」と言われるのではなく、「寒いと感じたからやめる」というように、自分の身体の声を聞いて判断する。これは外部から押し付けられた道徳的規範ではなく、自らの内側から生まれる倫理のことである。

主体性を理解するために

こうして考えると、主体性は単に「自由に選択する力」ではなく、「内側から湧き出る感覚」と「それを整理しながら行為へとつなげる働き」の相互作用として捉えられるべきだろう。教育や保育の現場で主体性を表層的に捉えることなく、より深い理解につなげるためには、この二重の働きを意識することが重要になる。

このあたりについては、久保健太さんの『写真と動画でわかる!「主体性」から理解する子どもの発達』が詳しいので、参考にしたい。その思想的背景にジル・ドゥルーズ哲学があり、ここも面白いのでつい読み始めてしまう。

つまり、「やりたいからやる」という単純な話ではなく、やらないという選択にもまた、複雑な心理的な背景がある。この背景を「関係論」的に捉え、その子の内側にある物語を読み取ろうとしなければ、本当の意味で主体性を理解することはできないだろう。これは、教育の現場にいる僕たちにとって非常に大きな課題であり、責任でもある。ひー、しんどい。

LAFTラジオ 対話の場をつくる

今回の対話を通して、改めて「人と話すことの面白さ」を実感した。対話を通じて学びが整理され、思考が深まっていく。

こうした学びの場を、オンラインでも今後作っていきたいと考えている。名付けて「LAFTラジオ」。今年は、テーマに近しい人や著作者を招き、その人の考えをたっぷり聞きながら自由に対談する場をつくる予定。これからどんな対話が生まれるのか、楽しみだなぁ。

なぜ今、「学習科学」なのか

今期のLAFTのテーマは学習科学とした。テーマ本は『人はいかに学ぶのか』だが、その第一版である『授業を変える 認知心理学のさらなる挑戦』はすでに持っていた。本にはレシートが挟まっていて、よく見ると2011年の日付。ページにはいくつか線が引いてあったが、改めて読み直してみると、当時の自分の視点はずいぶんピントがずれているように感じてしまう。でも、ナイスチョイス。その選択が今につながっているのだから。

『人はいかに学ぶか』はその第二版にあたる。米国では2018年に出版され、それまでの約20年間の知見が集約されたものだ。それが4年を経て邦訳され、手に取ってはいたものの、知っているつもりで深く読み込まず、積ん読状態になっていた。

今回のLAFTでは、あのとき実現できなかった「効果的な学習のポイント」を活かしながら、よりよい授業をつくっていきたい。個人的には、「数学者の時間」における理論的背景や、学習科学を用いた授業実践をさらに深められたらと思っている。とはいえ、さっそく第一章に「理論を実践に移すには相当困難を極める」との論文が紹介されていて、早くも詰んだ(笑)。

学習科学といえば、2019年にジョン・ハッティの『教育効果を可視化する学習科学』をテーマ本として扱ったことがある。これは当時、日本でも話題となっていたエビデンスベースの実践研究で、振り返ってみると、これが「学習科学」への僕の入り口でもあった。

半年という時間をかけてじっくりと読み解くことで、エビデンスの扱いについても理解が深まった実感がある。あくまでもメタ分析であり、より効果的な実践を示唆してはいるが、それを目の前の子どもたちにどう援用するかは、やはり難しさを感じる部分でもあった。今回は、そうした量的な分析を越えて、質的な側面にも踏み込んでみたい。

当時のLAFTエビデンスは、第5回目がコロナの影響で実施できずに終わってしまった。翻訳者の原田信之さんからは、「LAFTでの取り組みや実践を学会で発表してはどうか」と勧めていただいたが、それも実現には至らなかった。

エビデンスを広く集めて分析する量的な研究の枠を超え、質的な教育的価値をどのように提示できるのか。「学習科学」研究では、それが可能なのだろうか。今回のLAFT学習科学での取り組みが、そのヒントを与えてくれることを期待している。

そもそも、なぜ今回のテーマを学習科学に決めたのか。それは、前回LAFTのテーマであった中動態からの流れにある。もし中動態に筋肉があるとするならば(ないけど)、僕の中では「上腕中動態筋」がパンプアップしている。それは子どもたちの姿を中動態的に捉えられるようになってきたということだ。実在論的な理解から関係論的な理解へと、自分の見方が変化してきた。

佐伯胖によれば、関係論とは、事物を説明する際に、その事物自体の構造や属性だけで説明するのではなく、事物がどのように見えるか、どのようなあり方をするかを、他の事物との関係性の中で捉える立場である。これらの関係が独自の状況を生み出し、人間の行為もまた、その状況に埋め込まれている。この関係論的な見方は「状況論的な見方」とも呼ばれる。ようやくこの状況に埋め込まれた学習について理解が及ぶようになってきた。

「関係論」的な見方では、行為を周囲との関係性の中で理解する。例えば、一人で遊ぶ子どもの行為には、仲間に入れてもらえなかった経験、保育者の関心を待つ姿勢、あるいは純粋に砂の感触を楽しむ意図など、さまざまな背景があり得るだろう。このように、行為は子どもを取り巻く状況や過去の出来事、周囲の関係によって意味づけられている。

一方で、「実体論」的な見方では、行為の原因を子どもの心の中に求めがちである。「○○したいから」「○○が嫌だから」といった内面の解釈を試みるが、行為の原因が本人の意図に基づくとは限らないのが実情だろう。むしろ、その時々の状況や関係性によって、そうせざるを得なかったケースも多い。原因を無理に特定しようとすると、誤解や誤った原因の捏造を生んでしまう危険性もある。このあたりは國分功一郎が説く責任の生成にも詳しいので参照にされたい。

関係論の視点では、行為には未知性が伴うと考え、説明のつかない行動を既知の枠組みに押し込めることを避けることができる。重要なことは、子どもを直接見るのではなく、子どもを通して周囲の状況を見て行為を理解すること。これにより、行為を関係性の中で捉えることが可能になれる。

中動態について学び続けてきたおかげで、こうした理解がすんなりと自分の中にインストールされた感覚がある。そして、この関係性の視点をベースに、社会構成主義を背景とする「学習科学」へと敷衍していくことが、今回のLAFTの狙いである。次への一歩というかんじだ。

LAFTでの学びとは、やってみないと分からないことばかりの連続である。学びの成果は、事後的にしか分からない。メンバーと共に読んで、考え、実践して、また読む――そうした積み重ねの中に学びが埋め込まれていたことに、後になって気づく。

そもそもLAFTは、当時、管理職に締め付けられていた若手教員が奮起し、中心に始めた学習サークルだった。「先生こそ学びを楽しまなければ、子どもたちが学びを楽しめるはずがない」という思いで始めた。それが続いていくうちに、お互いの苦労を語り合い、癒やし合う場にもなっていた。そのコンセプトは今も変わっていない。そして経験を重ねることで、今年で14年目となった。

今、僕はもう若手ではない。自分が学びたいと思っても、その学びの場を見つけることができなくなっている。若い人たちは自ら学びに飛び込んでいくが、中年の僕は、学びたいと思っても、なかなか場がない。ならば仕方ない。自分で作るしかない。そんな思いで、自分の思想や教育哲学を更新するつもりで、LAFTを続けている。

今回のLAFTには、いくつか新しい試みがある。前回のテーマ本『中動態の世界』は、読書体力の求められる本だった。一人では走りきれなかったからこそ、集団で語り合いながら読み進められたのはよかった。

今回取り上げる『人はいかに学ぶのか』は、教育界の大御所・秋田喜代美さんが翻訳・編著を手がけた一冊だ。もしかすると、直接こうした学習科学の背景について話を聞けるチャンスがあるかもしれないし、ないかもしれない。

この本も学術書だけに、一人で読みこなすのはなかなか大変だ。そこで、今回は単なるブッククラブではなく、各章を担当制にし、それぞれのサマリーをプレゼンしてもらおうと思う。というのも、僕自身が最近この方法で読書を進めていて、とても知識がつくられている実感をもてているからだ。読書プレゼンという形にすることで、理解がより深まるはずだ。

さらに、オンラインで「LAFTラジオ」も始めたいと考えている。この構想については、また改めて機会をもって詳しく報告したい。

いずれにしても、学びには時間をかけることが欠かせない。一朝一夕でペロッと新しい情報を取り入れたとしても、それが生きた知識として磨き上げられることはないなぁ。だからこそ、学習科学を通して、我々自身も「学ぶコツ」を学んでしまおう、というわけだ。

本の読み方を変えてみたら、とても賢くなった(気がする)

年末からこの2ヶ月は、原稿の仕上げにじっくり向き合ったり、それに必要な本を改めて読み直してまとめたりと、けっこう生産的な時間を過ごせたと思う。

本の読み方も、だいぶ変わってきたなぁ。以前は手当たり次第にたくさん読んでいたけれど、今は一つの本をじっくりと理解するために、線を引いたり、ツッコミを入れたり、持論をメモしたり、わざわざ文章にまとめたり、スライドを作ったりと、そういうことを繰り返している。すると、自分の頭の中で何かがつながってくる感じがあり、知識が形作られていく感覚が生まれる。

なるほど、これが「知識をつくる」ということか。

知っていることで終わりがちな知識を、「わざわざ」まとめ直す。このプロセスを経ることで、自分の中にしっかりと定着した知識になっていくのだと、ようやく実感できるようになってきた。結構手間がかかるものだけど、ここ数ヶ月続けてきて本当に効果を感じているので、おすすめしたい。

まぁ、だからこそ、じっくり読みたくなる本と出会うためにも、多読も欠かせないんだけど。そのジレンマ。

最近、面白いなと思った本に、メリアン・ウルフの『プルーストとイカ』がある。読書が人間の脳に与える影響を、神経科学や認知科学の視点から解明してくれる本だ。

「読書が苦手な子は一体何につまづいているのか」を知りたくてこの本を手に取ったのだけれど、ところがどっこい、これまでの自分の読書方法がいかに浅はかだったか、反省させられた。

読書は生まれつき備わっている能力ではなく、脳の再配線(ニューロプラスティシティ)によって獲得される能力であること。読書は、脳の可塑性を活かした高度なスキルであり、文字を解読することで脳の回路が強化され、より複雑な思考が可能になること。ふむふむ。

これまで僕の読書傾向は、多くの情報にできるだけアクセスし、スキミングする技術には長けていた。けれど、そういう読み方では脳は育たないし、深く考えることにも至らない。どころか、集中力すら身につかない。

読書は単なる情報の受け取りではなく、推論したり分析したり、より重要なことを見つけるための批判的思考を促すしてくれるもの。また、文脈を想像したり、共感したりすることで、より高度な認知活動を活性化させる。だから、読まないのはもったいない。

じっくりと思考することと、情報を集めることとはちがう。スマホの小さな画面でいくら断片的に情報を集めても、なかなか熟考するには至らない。文字と文字を読みながら、そこに書かれていない行間や文脈を予測し、想像すること。これこそ、深く考えるために必要なことなのだ。だが、SNSではこうした読書の醍醐味を味わうのが難しい。

『プルーストとイカ』の終章でも、このあたりのことが課題として挙げられていた。今後、デジタルとフィジカルな読書のハイブリッドな方法をどう確立するか、という問題だ。続編の『デジタルで読む脳 紙の本で読む脳』も面白そうなので、ぜひ読んでみたい。というか積ん読本だったのでようやく日の目を浴びる。

以前、福岡伸一さんが「紙の本には束(厚さのこと)がある。これが読む地図となり、記憶となる」という話をされていた。紙の本なら「この知識は本のどのあたりに書かれていたか」がわかる。身体感覚を伴って読むことこそが、紙の読書の強みだということだ。福岡さんはそのためか、デジタル本は一切出していない。こういう徹底した姿勢も、とても好きなところ。

はたして、昨今デジタル教科書を推進しようとしているワーキンググループの人たちは、こうした読書の本質について、どれだけ積極的に議論しているのだろうか。しらんけど。

やっぱり、本を読むことは大事だ。細切れの時間でもいいから、常に本を読む習慣と、それを「わざわざ」加工する習慣の両方を持つことを続けていきたい。賢くなれそうだし。