2024年 9月 の投稿一覧

学びの本質は「開かれたからだ」にある

そもそも「よっこらしょ」って、気持ちを入れ直さないと始まらない、学びってなんだろう? 

やってみたいなぁ、知りたいなぁ、もっと考えたいなぁ、などと、何か「からだ」からの声を聞きながら自然に始められる学び、そんな学びが本来の姿ではないだろうか。

一つ、そのヒントは子どもの遊びの中にあるんじゃないかなぁ。

小さな子どもたちの遊びは、遊びそのものに没頭している。何かを考えてから動くというよりも、その遊び、活動自体に夢中になり、その没入感の中でその子らしさが現れてくる。さらに「いいこと思いついた!」に巻き込まれるかのように、遊びが変化していく。これはいわゆる「命の響き合い」として表現される。

多くの学びは知的なもの、つまりメタ認知的な思考や操作を要求される。しかし、そういった「あたま」を使うこと、それだけで本当に十分なのだろうか?

僕たちは、近代的な思考様式を学ぶことで、何か大切な「身体性」を失っているのではないだろうか。このことは中動態を学ぶことから大きく気付かされることばかりだ。こういった疑問をもてるようになったことは、中動態を理解しようとする試みの中で、深く考えさせられる利点だと思う。

昨年度末の数学者の時間は「物を使って考える」というテーマにこだわってみた。やはり、具体的な物や半具体物を使い、それを操作することで人の思考は活発になっていく。

ここから考えをさらに広げてみると、人が「考える」という行動に移るのは、「考えたくなるから考える」のだと思う。

では、どうすれば自然と考えたくなるのだろうか? 

その答えの一つは「からだを開く」ことにあると思う。逆説的ではあるけど、からだを開くためにはまずしっかりと基礎基本を学ぶ必要がある。学びを通じて土台としての基礎を身につけ、その上で一度それを手放すこと。

つまり学んだことにとらわれすぎないことが大切だろう。アンラーンすることで、初めて何か新しいものが立ち上がってくる。そして、その瞬間には開かれたからだが必ず存在している。この構造はまっくもって中動態のようなものだ。

学びと身体はつながっている。この考えは、多くの本で語られているし、禅思想の中でも強調されている。

今、遊びや学びについて少しずつ理解できるようになってきた。単なる未来予想から差分して必要な力を身に付けるような浅薄な学力観にならないようにしたい。

今、子ども自身を主語にして考えること。

そして、人が学ぶことや遊ぶこと、その本質とは何かを考えていきたい。

西平直『稽古の思想』

矢野勇樹さんの論文があまりにもいいと書いたら、連絡をいただけた。そのとき、中動態という言葉を使ってはいないけれども、中動態のプロセスを考えていく上で参考になる本だと紹介いただいた。

今週、丁寧に読み進めてきた。中動態について理解しようと思って読み始めた本だが、それ以上に深い知見が描かれていた。今の自分の持っている思考の枠組みが溶かされていくような感覚になる。この本は一読をお勧めする。世阿弥の稽古の考えをベースに、これほど難しい概念をわかりやすく述べた文章は他に読んだことがない。

『遊びは、授かった命をいきいきと輝かすこと』

次の10年間の学校ビジョンを作成するため、夏の研修で話し合った案をもとに整理し、広報用のパンフレットにまとめる作業を進めていた。僕は、この話し合いのプロセス自体がとても重要だと感じている。なぜなら、職員全員で「どんな学校にしていきたいか?」を話し合い、共通ビジョンを合意してつくり上げることは、学校づくりには欠かせない仕事だからだ。

今回の話し合いの中で、「学び、遊び、自治の過程を大事にする」という一文を提案した。遊びを通して友だちとケンカしたり、うまくいかない過程そのものが、子どもたちにとって大切な経験になるのだと夏の研修で意見をもらっていたので、「学び、遊び、自治の過程を大事にする」という表現を並列にすることにした。

しかし、校長さんが「遊びって過程じゃないんじゃないかな」と意見をくれた。その時はピンとこなかったが、よく考えてみると、学びは結果に至るまでのプロセスが大事であるとよく言われるが、遊びは結果を求めるものではなく、遊ぶそのものに夢中になることが本質だと気づかされた。遊びには、時間の感覚を忘れ、その瞬間に没入する力があるものね。

3時間半の会議はあっという間に過ぎ、言葉の背景にある願いや思想を語り合う時間の価値を感じることとなった。

その後、校長さんからも「遊びは、授かった命をいきいきと輝かすことだという考えをもっています」というメールが届き、さらにその考えを深める、じわっている。

学校の歴史を振り返ると、昔は「無だ!」と、教育目標すらなかったという話も聞き、驚かされたが、それもまたこの学校らしい。今後、変わりゆく世界に対応しながら、学校目標を時代に合わせて手直ししていくことも含め、素敵な学校づくりがまだまだ続いていくのだと感じている。

○○メソッドの前に、考えたい教材の価値 あり方とやり方を捉え直す

今日の午後は、比較的ゆったりと学級事務や校務に時間を割くことができ、同僚と興味深い話をする機会を得た。

教育界では「新しいメソッド」への関心と実践が進んでいるが、重要なのは、方法論に先立って「どのような教材を扱うか」である。子どもたちに何を伝えたいのか、扱う教材やテーマがなければ、方法論は空虚なものになるのではないか。

なるほどと首肯すると同時に、自分の実践ではどのようなテーマや教材を子どもたちと共有すべきか、自問してしまう。

この学校独自の文化を大切にしながら、それを温故知新の精神で時代に合わせて変えていくとは、何を意味するんだろう。

最近は算数に関連することが多いが、僕は「良問」と呼ばれる教材を通じて、子どもたちに算数世界の幅を拡げ、考える楽しさの共通の体験したいと考えている。そのために「数学者の時間」という実践方法を導入しているが、メソッドとは言えるほど一般化できる訳でもなく、そこにはやはり、どういう算数でありたいのかが埋め込まれているつもり。

あり方とやり方は、やはり密接に繋がっているものである。

手元には西村佳哲著『かかわり方のまなび方』という懐かしい本があり、文庫版で改めて購入した。この本は、あり方とやり方について考えるための補助線を与えてくれたものである。

“ある成果を形にするには、それを実現するための技術や知識がいる。しかし技術や知識は何を持って良しとするのかといった考え方や価値観があることで初めて生きる。さらにその基盤として、物事に対する態度や姿勢、別の言い方をすれば、あり方や存在がある。”(P.34)

“僕は上側の技術や知識については教えることにあまり抵抗感を覚えないようだった。教えやすくもある。しかし考え方や価値観になるとブレーキがかかる。それは外から与えられるべきものではないと感じているようだ。あり方や存在に至っては何かを言わんやである。”(P.35)

最近は新しいやり方やメソッドを耳にする機会が増え、研修に参加することも多くなっている。昨日もラフトで中動態について考え、その授業設計の実践化にまで話が及んだ。

このようなメソッド化によって失われこぼれてしまいがちな教育哲学や思想を大切にし、自分らしさや学校らしさが反映されたあり方が通底する教材を通じて、方法を学ぶ仕組みを築いていく必要があるんじゃないかな。