先日のLAFTトラジオ×一柳智紀さんの講演を聞いてから、ずっと頭の中で考えていることがある。ワークショップ授業における「教師のカンファランス」と「子ども同士のピアカンファランス」の意味である。
これまで自分は、ワークショップ授業とは「教師が一人ひとりの子どもを支える対話」、つまり形成的評価の実践が中心にあるものだと理解してきた。教師が子どもの現状を見極め、次の一歩を共に整理し、必要な手順や選択肢を示しながら励ます。そうしたやりとりが、学習者を支える大事な学びだと信じてきた。
けれども実際に教室を見ていると、子どもたちは教師がいなくても、自分たちで学び合い、支え合っている。むしろ教師の手を離れたところでこそ、子どもたちの学びは深く動いているようにも見える。このことが、最近ずっと気になっていた。どうして、よく学び合えるんだろう。
※もちろん中には関係の無いおしゃべりをしていて注意される子もいるが、これはこれで中動態的学び場をつくるためにも、ある程度認めているところ。
「数学者の時間」の授業で良問を扱うとき、子どもたちは自分の頭で考え、試行錯誤したくなる。そのときに生まれる子ども同士のやりとりは、誰かが一方的に教えるというより、「一緒に考える」「一緒に迷う」「あーでもない、こうでもない」といった探索的な会話だ。まさに共に考える文化がそこにある。
ここでいう「探索的会話」とは、答えを持たないまま、互いの考えをもとに新しい見方をつくっていくような対話のこと。
これに対して、教師のカンファランスはどうしても「発表的会話」になりやすい。つまり教師がある程度ゴールや方向を持ち、それを子どもが気づけるように導いていくタイプの対話になりやすい。もちろんそれは大切な営みであり、多くのつまずきを乗り越える支えになる。だが、教師の側が答えをすでに持っている点で、探索的なやりとりとは少し性質が異なる。
昨今では、やり方を一方的に教え込むような指導はほとんど見られないだろう。けれど、もしそれをしてしまえば、子どもにとってはただのその場しのぎにしかならない。クロスワードの答えを言われたり、まだ読んでいないミステリーの犯人を先に明かされるようなものだ。学びの喜びがそこにはない。
そう考えると、教師による個別カンファランス(発表的会話)だけでは、ワークショップ授業は成り立たないのだと思う。
子どもたち同士のピアカンファランスで探索的会話を通して、共に考え、聴き合う文化が教室の中に育っていく。その文化があるからこそ、教師のカンファランスも機能する。発表と探索の両者は対立するものではなかったんだな。カンファとピアカンファのように、相互に支え合う関係にあるんだと気付いた。
一柳さんの話を聞いたことで、自分の中でワークショップ授業の「解像度」がぐっと上がった気がする。
今書いている「数学者の時間」の原稿も、気づけば教師のカンファランスばかりに焦点が当たっていた。これからは、子どもたち同士のピアカンファランスの側面をもっと描き切る必要があるなぁ。
まだまだ先は長くなっちゃった。
